(BWV 812–817)
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《フランス組曲》(BWV 812−817)は、優美で気品のある6つの組曲を集めた、バッハ30代後半の作品である。数々の代表的な器楽曲を創作したこの時期に《インヴェンションとシンフォニア》や《平均律クラヴィーア曲集》も含まれるが、それらとともに《フランス組曲》は、子弟の音楽教育のために書いた包括的なプログラムの一片を担っていた。当時、鍵盤楽器用に書かれた組曲は、6曲ほどの様式化された舞曲から構成されていたが、特に愛好家の間で人気のあったジャンルなのだが、高い教育的価値を持っていた。つまり、これらの組曲から、様式や良い趣味の本質を学ぶことが期待されたのである。
伝統的に、《フランス組曲》は、《イギリス組曲》と対になっていると考えられていた。《イギリス組曲》とは、バッハが《フランス組曲》よりも前に作曲していた別の未出版の組曲集である。「フランス」は、前奏曲がない点でも、また規模が小さい点でも、「イギリス」から区別される。様式的には「フランス」は、この2つのうちでより魅力的で優雅なほうである。すなわち、「フランス」は、対位法を使うことを避け、カンタービレな(歌うような)旋律や、響きがよくきこえる慣用語法的な鍵盤楽器のテクスチュアといったようなギャラントな要素を開拓することに、より明確に焦点をおくという傾向がある。《フランス組曲》の性格について論じるとき、その起源から切り離して考えることはできない。というのは、この《フランス組曲》は、音楽を才のあるバッハの若い妻、アンナ・マグダレーナ・バッハ(旧姓ヴィルケ、1701−60)への結婚プレゼントのようなものだったからである。
作品の起源
アンナ・マグダレーナ・バッハは、1721年12月3日にバッハと結婚したとき、ちょうど20歳だった。この結婚は、バッハにとっては2度目であった。彼は17ヶ月前に、最初の妻マリア・バルバラを、突然の病気で失っていたのである。アンナとの結婚がバッハと彼の子供たちの意気をどれほど高めたかは想像するしかない。
彼女はプロの歌手であった。そのため案の定、彼女の鍵盤楽器の演奏技術は彼女の歌の才能に匹敵するものではなかった。結婚式のすぐあとに、バッハが彼女に、フランス組曲の最初の5曲が記入されている《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集》を贈ったことは、彼らの愛にみちた関係を証明するものであるように思われる。このような贈り物を受け取ったとき、彼女はどのように感じたであろうか?1925年にロンドンで匿名で出版されたロマンティックな小説『マグダレーナ・バッハの小年代記』の著者であるエステル・メイネルは、この場面をつぎのように生き生きと想像している。「結婚式のすぐあとで、彼は、私のために作った楽譜帳をプレゼントしてくれた・・・私が熱心にページをめくっているあいだ、彼は立ってにっこりと優しくほほえみながら私をみていたのだが、このとき私は、彼がこの楽譜帳において、私がクラヴィーア−彼が私にレッスンをはじめていた楽器である−を演奏するために易しい曲をたくさん書いてくれていたのだということがわかった。私はまだあまり進んでいなかったけれども、結婚する前には少しは演奏できるようになっていた。そこで、彼は、私を喜ばせ励ますために、私の演奏技術が到達している段階に適応するように、そして私をより高い段階に優しく導くために、これらの旋律の美しい小曲を書いていたのだ。これらの曲のなかには、荘重で美しいサラバンド−私はいつも、クラヴィーアの組曲やパルティータのなかの彼のサラバンドはとくに愛らしく、彼の心を表現していると考えていた−や、とても陽気な小さなメヌエットが含まれており、すべての曲が、どんな学生も鍵盤楽器を演奏したくなるようにさせる魅力をもっていた。こうして、彼はいつも喜んで、彼自身の高みから降りてきて、子供や初心者の手をとってくれたのである。無関心や不注意をのぞけば、彼が生徒にかんして我慢できないことはなにもなかったのである」
タイトル
アンナの《クラヴィーア小曲集》のなかに書き込まれている組曲のほかには、バッハ自身が書いた《フランス組曲》の筆写譜は残っていない。バッハがこの曲集を何と呼んでいたかということはまだ議論の余地がある。バッハの生徒(おそらくヨーハン・シュナイダー[1702-88])が書いた筆写譜のなかに見られる呼びかた−ややつづりのミスのあるフランス語で書かれた「クラヴサンのための6つの組曲 Sex Sviten pur le Clavesin」−を信用するならば、おそらくバッハは、失われた自筆譜に「ハープシコードのための6つの組曲」というあっさりとしたタイトルを与えていたのだろう。鍵盤楽器のための組曲のもうひとつの曲集である《イギリス組曲》がすでに存在していたというのに、バッハの家族うちでさらに区別をしていなかったのは目をひくことである。たとえば、バッハの死亡記事(1754)では、「同じ楽器[すなわちクラヴィーア]のための6つの組曲」(イギリス)と、「ややみじかいべつの6つの組曲」(フランス)と呼ばれているだけなのである。バッハはどのようにしてこれらを区別していたのだろうか?我々が追跡できるかぎりにおいて、この作品が初めて「6つのフランス組曲」と呼ばれているのは、1762年のマールプルクの論文のひとつにおいてである。バッハの家族一門とマールプルクとの親密な関係を考慮するならば、この情報は信用できると思われる。フォルケルは、彼のバッハ伝(1802年)において、この組曲が「フランス趣味で書かれた」と説明することによって、この見解を支持している。
編集と修正のプロセス
《フランス組曲》のバッハの自筆の手稿譜が失われていることはまた、この作品の権威あるテクストを確立しようとするとき、重大な問題を引き起こす。事実、残っている手稿譜をしらべてみるとひじょうに混乱してしまう。別々の組曲をひとつにまとめている手稿譜があるかと思えば、バッハが継続的に修正を行い、パート書法を洗練させ、テクスチュアを引き締め、さらに装飾や小節、そして楽章までも付け加えていることをはっきりと証明している手稿譜もあるのだ。これから下記において、主要な資料に基づいてみじかく要約して説明する。
これらの資料のなかでもっとも初期のものは、アンナの《クラヴィーア小曲集》において唯一現存しているバッハの自筆譜である。ここでは最初の5つの組曲が、つぎの順序で記入された。第1番は、清書したコピーであるが、1722年のはやくにこの曲集が彼の妻に贈られたときにはおそらくすでに写されていたであろう。このことは、この組曲があらたに作曲されたものであることを強くほのめかす。第1番のつぎにはすぐに、第2番と第3番が出てくるが、これらはかなり大雑把に手書きされている。おそらく、アンナが第1番をバッハが満足しうるほどに習得したあとで、付け加えられたのであろう。第4番は、清書に近いコピーで伝えられている。バッハの手書きについてのゲオルク・フォン・ダーデルセンの研究(1958)によれば、1722年の終わりごろから、1723年のはやくに、第4番は加えられたということである。第5番の最初の数小節もまた、この時期に書き込まれている。しかし、残りの部分は、1724年の後半まで記入されなかった。第6番は、アンナの《クラヴィーア小曲集》では見つけることはできない。しかし、この巻の後ろのほうの40ページほどが今では取り除かれていると考えられているので、かつては第6番もこのなかにあったのかもしれない。
あたかもこの結婚式のプレゼントのようなものがバッハ自身の作業ノートに変わってしまったかのように、アンナの《クラヴィーア小曲集》のなかで多くの修正が行われている痕跡を発見すると驚くかもしれない。第2番と第3番にメヌエットが付け加えられていることはとくに重要である。というのは、これらは、演奏するのがもっとも易しい楽章に属するからだ。しかしながら、この楽譜帳においてだけ修正が行われているというのではない。バッハのたゆみない努力の証拠はまた、彼の生徒の筆写譜のなかでも見出される。また、バッハは、(もしかすると、かつての贈り物を実質上とり返してしまったことのうめあわせのために)1725年にアンナに捧げた《クラヴィーア小曲集》第2巻においても修正を行っている。ここでは、第1番と第2番が修正されたかたちでアンナによって手書きされているのだが、それにバッハがふたたびさらに改良を加えているのである。
シュナイダーの筆写譜も、バッハが、たえずこの曲集にとりくんでいたということをうかがわせるものである。この筆写譜には6つの組曲が含まれている。第1番から第4番までと、第3番と第4番のあいだにBWV818とBWV819が置かれている(第5番と第6番はこの筆写譜では見つけられない)。アルフレッド・デュルの研究(1982)によれば、最初の4つの組曲は、1722年までに、部分的には、アンナの最初の《クラヴィーア小曲集》から書き写されたものであり、最後の2つの組曲は、1725年かもっとあとに写されたものである。BWV818をのぞくすべての曲がのちにバッハによって、アンナの《クラヴィーア小曲集》第2巻に反映しているテクストの状態にまで更新されている。第4番のメヌエットがガヴォットのあとの空いたスペースに書き写されているのは興味深い。この楽章は、アンナの《クラヴィーア小曲集》の第1巻には含まれていなかったので、これもまたあとで付け加えられたのであろう。
ハインリッヒ・ニコラウス・ゲルバー(1702−75)の筆写譜では、7つの組曲がつぎの順番で出てくる。すなわち、第1番、BWV818、BWV819、第3番、第2番、第4番、そして第5番である。彼は第6番も書き写していたのだが、それは「クラヴサンのための前奏曲つき組曲第6番Suite 6ta avec Prelude pour le Clavesin」というタイトルで、《イギリス組曲》のグループに含められていた(この曲の前奏曲は、《平均律クラヴィーア曲集》のBWV854の前奏曲からとられたものである)。テクストの観点からいえば、最初の6曲は概してかつての稿に従っているのに対し、残りの2曲はあとの稿に従っている。第6番において2つのメヌエットが発見されるのはこの資料においてであり、あとのほうのメヌエットは「小メヌエット」と呼ばれている。これは、第6番の組曲の最後に置かれている。
ヨーハン・カスパール・フォークラー(1696−1763)の筆写譜は、1725年末よりも前に作られたのだが、のちの稿のみを伝えている。それゆえ、この筆写譜から、すべての修正がこの年までになされていたと言うことができるのだ。彼の筆写譜は、第1番、第2番、第5番、第4番、第6番とBWV819aから構成されている。ゆえに、第3番とBWV818が欠落している。第6番では、メヌエットは、最後に置かれている。
ヨーハン・クリストフ・アルトニコル(1720−59)の筆写譜は、1744年よりもあとに作られたのだが、ここでは6つのフランス組曲すべてが正しい順序で出てくる。この筆写譜には凝ったタイトル・ページがあり、そこには最初に英語で「6つの組曲」と書かれていて、そのあとにドイツ語による記述がある。このドイツ語の記述は、出版された《6つのパルティータ》のタイトル・ページで使われている呼びかたに基本的には従っている。注目すべきは、予想されるのとはちがって、この作品の以前の稿を書き写していることである。ただし、この稿は、アンナの《クラヴィーア小曲集》第1巻と似ているが同一ではない。あきらかにバッハは、修正稿も未修正稿も含めたこの作品の多種多様な筆写譜を保存していたのであり、彼の生徒たちはここから自分の筆写譜を作成していたのである。
よりおおきなコンテクストにおいて、以上のことをすべて考え直してみると、《フランス組曲》をバッハがいかに構想し発展させていったのかということを理解することができるようになるだろう。この作品が、バッハが熱心に一連の教育的な作品を集めることにとりくんでいた1722年に生まれたことは、ほぼ確実である。《フランス組曲》が、妻の鍵盤楽器の演奏技術を向上させ育もうとするバッハの妙案であったことは意味深いと思われる。これに対し、2つの非常にすぐれた方法論上の研究である《インヴェンションとシンフォニア》(1723)と《平均律クラヴィーア曲集》(1722)は、彼の長子、ヴィルヘルム・フリーデマンの教育のために生まれた。ゲルバーの伝記的な説明から我々が学ぶのは、《フランス組曲》は、彼にとってはあとで挙げた2つの作品のあいだに位置づけられるということである。これらの資料から我々はまた、いかにしてバッハがこの作品を拡大し、彼の生徒の筆写譜に数多くのテクスト上の詳細な書き込みを付け加えていったかも知ることができる。この書き込みは、バッハの教育カリキュラムにおけるこの作品の重要性を示唆するばかりではなく、どのようにして彼が生徒を教えたかということをも示しているのだ。1725年までには、この作品は大部分完成されており、同じ年に、バッハはアンナにもうひとつの《クラヴィーア小曲集》を贈った。もっと豪華に装丁されているこの巻には、のちに《6つのパルティータ》の第3番と第6番として知られることになる2つの新しい組曲が含まれていた。《6つのパルティータ》は、バッハが印刷して出版した一連の鍵盤楽器のための作品の最初のものであるが、このみずみずしい野望が、おそらく、バッハの焦点が変わってしまったことの主要な原因であろう。このため、バッハは《フランス組曲》の最終的な清書コピーをけっしてつくらなかったと思われる。
この作品の最終的なテクストが、ただのひとつの資料においてもわれわれには託されなかったとすると、われわれにゆだねられているのはどの稿を選択するかということである。この録音は、新バッハ全集(1980)の「B稿」、すなわち、種々の資料から、より後年のテクストを提示すると考えられる解釈を行っている稿に基づいている。また、仲間の2つの組曲であるBWV818aとBWV819aも、注目すべき異稿とならんで、この録音に含まれている。
様式的特徴
《フランス組曲》のもっとも際立った特徴は、バッハが積極的にギャラント様式を追求している点である。バッハがめざすのは歌う旋律であり、そのために彼は、技術的に複雑な音型や厚いテクスチュアを用いることを注意深く避けている。このことは、伝統的にホモフォニックな楽章であるサラバンドにおいてすら見られる。前奏曲がないために、導入的な性格をもつアルマンドにおいてもあきらかに、対位法的書法はあまり使われていない。クーラントには2つの異なったタイプがある。すなわち、ゆっくりとして落ち着いたフランス風のクーラント(第1番と第3番)と、軽快なイタリア風のコレンテ(第2番、第4番、第5番、第6番)とである。また、この曲集の前半の組曲のジーグについても言及すべき価値がある。というのは、堂々としたフランス風序曲(第1番)、陽気なフランス風カナリ(第2番)、なめらかに流れるイタリア風ジガ(第3番)、というふうにヴァラエティに富んでいるからだ。ギャラントリー(サラバンドとジーグのあいだにおかれている諸楽章のこと)でもって、バッハは自らの様式的次元をさらにひろげている。《フランス組曲》においては、《イギリス組曲》では用いられていない形式である、エア、アングレーズ、ルール、ポロネーズが使われている。より自由に様式化するバッハの舞曲の扱い方も明白であるが、これは、《6つのパルティータ》でもってさらにはっきりしてくる傾向である。
より広い歴史的な展望からみれば、いかにバッハの作曲の様式と技法が何年もかけて発展したかがわかる。《フランス組曲》は、年代史的には《イギリス組曲》と《6つのパルティータ》のあいだにおかれているので、これからさらに成熟していくことになるバッハ自身の作曲様式の進化した段階を証明するものである。しかし、その簡潔さ、そして近づきやすい性格という点からみれば、《フランス組 曲》は、多くの人々にとって、お気に入りの鍵盤組曲となっているのだ。
このエッセイは、キングレコードよりリリースされた鈴木雅明氏のCD(KKCC-2349)の楽曲解説として書いたものです |