今日で315回目の誕生日を迎える(注)バッハは、生前からドイツを代表するオルガン・チェンバロの名手としてその名を広く轟かせていた。1723年にライプツィヒのトーマス・カントル(聖トーマス教会附属学校の音楽担当教師)および市の音楽監督として就任してからのバッハは、少なくとも最初の3年間はその激務に殆ど埋没していたようだ。その多忙を極める彼が職務とは直接関係のないクラヴィーア曲の出版を思い立った背景には、ヴィルトオーゾ演奏家としてのプライドと作曲家としての自信があったことが察せられよう。特に1717年のフランス人・マルシャンとのドレスデン競演はバッハの死後も広く語り継がれるほど有名なエピソードであったし、作曲面でも家族や弟子らのために、《インヴェンションとシンフォニア》や《平均律クラヴィーア曲集》のような対位法を基調とした体系的で優れた教本から、当世風の舞曲を扱った《イギリス組曲》や《フランス組曲》まで幅広く書いていたことは周知の通りである。それが故、バッハのパルティータ出版には歴史的必然性が漂う。当時の出版事業は現代の私たちの予想をはるかに越える費用と労力が必要であったが、そこへの飛躍への決断の重さがこの曲集の内容と性格にも明確に反映している。
バッハが直接のモデルとしたのは、ライプツィヒの前任者・J.クーナウの2巻にわたる作品(1689・1692年)で、当時ドイツでは最も広く知れ渡っていたものの一つであった。バッハはここから《クラヴィーア練習曲》という名称、個々のパルティータという曲名、それに楽曲構成を踏襲した。また、この表題に記された「音楽愛好家の心を楽しませるために」というくだりは、当時の消費者の趣向を念頭において作曲した事を示唆する。この頃のバッハは、宮廷都市ドレスデンの音楽家や音楽事情からの強い刺激もあり、モダンでファッショナブルであったイタリアとフランスの様式を積極的に吸収したが、このパルティータにそれが顕著に反映している。
この曲集の出版により、クラヴィーア曲の作曲家としてのバッハの名声は定着したようだ。1802年に出版された初のバッハ伝で、フォルケルは「この作品は当時の音楽界に大きなインパクトを与えた。このようなすばらしいクラヴィーア曲はかつてなかった。この曲集からいくつかを学び、よく演奏できた者は誰でもこの世界で成功することができた」とまで言っている。しかし、バッハと同時代に生きたマテゾン(1731年)、ゴットシェド(1732年)、ミツラー(1738年)によれば、パルティータはその演奏技巧の難しさで有名であったらしい。音楽を趣味とする新しい中流階級が生まれ、それに伴い鍵盤楽器がリュートに代わって家庭の楽器としての地位を確保した18世紀にあって、バッハのパルティータは彼の指を基準に書かれた。芸術に対しては譲歩したくなかったのであろう。
独創性という面では、同じタイプの舞曲中に見られるバッハの表現の幅の広さにも目を見張るものがある。例えば、第1番のきらびやかで強健なアルマンドと、第4番の緻密で叙情豊かなそれとを比べると、とても同じ舞曲様式がモデルとは考えられないほど個性が輝いている。また、サラバンドにも、第3、5、6番のそれのように、アウフタクトから始まっているものもあり、明らかにその伝統的な形式枠を逸脱している。つまり、舞曲の型という歴史と伝統に対し、バッハは従順であろうとはせず、逆にその表現力の限界と可能性を見極め、自由に扱う傾向があった。これは、バッハが時折舞曲の題名に「Tempo di ...」というフレーズを入れて変更したりしたことにも同様に言える。
それにも増して重要なのは、バッハがここでイタリアとフランスの様式を各々のパルティータの性格を決定する要素として用いている点である。これは、クーラントの2つのタイプ、つまりイタリアのCorrenteとフランスのCouranteが直接対比されていることからも明白であろう。バッハはこの様式上の鮮やかなコントラストを軸とし、各舞曲のもつ性格と内容の多様性を追求しているのだ。
パルティータには、数曲の初期稿とオリジナル出版譜が現存するが、それらを詳しく比較すると、曲名、配置から細かい音符や演奏記号まで、様々な違いが認められる。特に重要なのは、バッハの手元に置かれていた1731年の集成版で、バッハの手書きの修正・改訂個所が多くを示唆する。詳しくは、新バッハ全集の批判校訂報告(1978・補遺1997年)を参照して頂きたいが、それらを根気強く体系的に研究して行くと、バッハがある段階から次へと何を考え、曲が更に効果的に演奏されるためには、どうすべきであったのか、などがバッハの視点から見えてくる。数少ない演奏記号(スラー、スタッカート)の解読を含めて、バッハの記譜をどう読むべきか、といった識見も、そこから生まれてくる。
Praeludiumと題されたプレリュードは《平均律クラヴィーア曲集》第1巻のそれを連想させる。上行音階を華麗に装飾する息の長い主題は、気品に満ちた3声の対位法で処理され、軽やかに進んで行くが、最後は5声でクライマックスを迎える。Allemandeは、快活なアルペッジォを基調としながらも頻繁にテクスチュアが変わってゆくが、明確な和声進行が、はっきりした方向性を示す。Correnteでは、三連符で陽気に流れるアルペッジォと短く分節化されたモティーフがうまく対比され、新鮮な2声のインヴェンションを展開する。優雅なSarabandeは、豊かに装飾された旋律をたっぷりと歌う。一対のMenuetは前者が軽く流れる2声のテクスチュア、後者が和声豊かで歯切れ良い4声テクスチュア。終曲のGigueもイタリア様式。軽やかなテンポで分散和音が流れる中、右手が腕の交差で忙しく飛び交い、点で長い旋律を鮮やかに描いて行く。
Sinfoniaという題はカンタータの冒頭楽章からイメージを借りてきたものであろうか。フランス風の荘重な序章は、その国民色を印象付けるが、間もなく華美な旋律が支配する挿入句を経て、情熱的なフーガへと展開して行く。Allemandeは模続進行を主体として、流れる楽想を次々と紡ぎ出す。Couranteは、リズム的にもテクスチュア的にも伝統的なフランスの様式を踏襲しているが、情熱的な出だしが印象的。Sarabandeは旋律楽器とコンティヌオのデュエットだが、和声進行により第2拍へのアクセントが確認できる。軽やかでいて、かつ哀愁を湛えたRondeauxは、バッハが随意に挿入した曲。模倣進行を基調とした主題が、その変奏と挿入部との交替により大きなドラマを作り上げて行くが、クライマックスは終曲のCapriccioに託される。3声のシンフォニアの書体をとるこの曲は、明確で力強い曲の構造と劇的な対位法書体が深い感銘を呼ぶ。
Fantasiaは比較的自由な対位法手法を用いた2声のインヴェンション。明確な楽句が論理的かつ上品に展開していく。Allemandeは贅沢に装飾された旋律をこれまた豊かな低声部が支えながら優雅に進んで行く。Correnteは活気溢れるイタリア型。付点音符のモティーフが2声のテクスチュアを支配する。ゆったりと3声で流れるSarabandeは、かなり自由な模倣形式に拡張されている。任意追加されたBurlesca(戯れ)とScherzoはそれぞれ3/4・2/4拍子で活気溢れる流れを呼び戻し、終曲のGigueへと繋げて行く。3声の対位法とジーグの流れが強い説得力でもって曲を締め括る。
Ouvertureはリュリのフランス序曲をクラヴィーア用に編曲した、優雅でかつ雄大な楽章。後半は協奏曲様式によるフーガ。Allemandeは第3番の同楽章より更に旋律に磨きがかけられ、協奏曲の緩徐楽章を偲ばせる豊かな叙情歌。フランス風のCouranteは、機敏なモティーフと鮮やかなテクスチュアが喜びに満ちた歌を紡いで行く。ここに挿入されたAriaはシンコペーションをモティーフとする可愛らしい性格の曲。Sarabandeは、親しげに問い掛けているようなモティーフと、それに穏やかに受け答えているようなモティーフの対話で展開してゆく。Menuetは短くまとまった楽句の中に様々なリズムとテクスチュアを組み込んだ、活気ある曲。管弦楽曲からのアレンジを思わせる。Gigueは、息のつく間もない程激しく上下に動き回るアルペッジォを主題とし、フーガ風に処理したもの。
Praeambulumはトレッリ風の短いリトルネッロをもつ協奏曲がモデル。トッカータ風のきらびやかな楽句が光っている。Allemandeは緩やかに下行する三連符による主題を対位法的に処理する。後半では主題が反行形で現われる。Correnteは明るく輝くアルペッジォを透明度の高い2声の対位法でまとめた快活な曲。Sarabandeは、付点リズムを基調とする自由な様式。トリオソナタの緩徐楽章をイメージか。Tempo di Minuettaは3/4と6/8を融合した異色の作品。楽句の終わりに宛がわれる戯けた感じの終止形が印象的。快活なPassepiedでは、愛嬌を振りまいているようなモティーフが繰り返しその姿を現すが、後半の意表を突くような入りに茶目っ気を感じる。この陽気なムードを引き継ぐGigueは特徴ある主題による3声のフーガ。前半と後半で異なる主題を扱う。
Toccataはスケールの大きな前奏曲。冒頭と終結部に感情の迸るアルペッジォと内省的な2声の対位法の対比を、そして中間部に溜息のモティーフを含む長い主題による3声のフーガを擁する3部形式。Allemandaは付点リズムを生かした息の長い旋律をしっとりと歌う。創意溢れる装飾が劇的効果を高めている。Correnteでは歯切れ良いシンコペーションと華やかな装飾的楽句により彩られたイタリア風。Airは単なる音階をモティーフとした軽い曲。方向性の明確な楽句が安堵感を齎す。Sarabandeはリズム的に様式から外れているが、フランス風の厳かで豊かな装飾と和声、そして緊張のあるテクスチュアに支えられた旋律が、深い悲しみを湛えた表現を可能にしている。Tempo di Gavottaはガヴォットのリズムで開始するが、すぐ流れるジーグのリズムに変わって行く。Gigueは多彩なリズムを対位法書体に取り入れた意欲的な曲。付点リズムと大きな跳躍を基調とした主題が、勇気溢れんばかりに力強く展開する。
(注) このエッセイは、2000年3月21日7時開演の園田高弘ピアノ・リサイタル(東京オペラシティコンサートホール タケミツ・メモリアル主催)バッハのパルティータ全曲プログラムに掲載された楽曲解説です。