不可能への挑戦

「バッハ無伴奏」の独創性

富田 庸

 「バッハの無伴奏」という、洒落た言葉の持つ深さと重み、皆さんはどう感じていますか。難曲中の難曲――。ヴァイオリニストへの道の彼方に大きく聳えている曲集――。登山家がヒマラヤへ抱く憧れにも似た、究極の目標――。プロの演奏家の場合ですと、芸術家としての感性と演奏技術をあまねく披露するための十八番として常にレパートリーに持っておきたい曲集、ということになりましょうか。ヴァイオリンを学ぶ全ての人々にとって、「無伴奏」はいくら汲んでも尽きる事のない芸術の泉です。暗中模索の練習を繰り返し研鑚を積み重ねていく過程で、今まで気づかなかったバッハの意図が曲の深みに潜んでいるのを幾度と無く発見した、というような経験談は、よく聞くところです。そういう意味では、曲中に無限に秘む芸術の奥義に、畏敬の念をさえ感じる人もいるかもしれません。もちろん、どんな曲にもこのようなプロセスはありましょう。しかしバッハの「無伴奏」には、独特の深みがあります。トッパンホールの三夜にわたる「バッハ没後250年記念演奏会」シリーズ・プログラムでは、「無伴奏」を多方面から検討し、そのバッハの手腕の源泉を探り当てていこうと思います。第1回目の今回は、バッハが「無伴奏」を作曲した背景について、バッハの作品全体の中の位置付け、伝記学から見るバッハという観点から光をあててみたいと思います。
 この曲集の自筆浄書譜(現在ベルリン国立図書館所蔵)が書き上げられたのは、1720年で、これは生活に恵まれていたケーテン時代(1717-1723)のちょうど中ほどにあたります。当時35歳のバッハにとって、子供たちの音楽教育に目覚めた年であり、12年間付き添った妻マリア・バーバラを亡くした衝撃の年でもありました。楽長という高い地位にあり、オルガン演奏や教会音楽に携わる必要の無かったバッハが、チェンバロ、室内楽曲の作曲家として十二分に羽を伸ばせた充実した時期でもありました。しかし、1720年というのは、あくまで清書された年代で、作曲はそれ以前、つまりバッハがヴァイオリンの演奏を受け持っていたヴァイマール時代(1708-1717)に遡るのでは、と考えられています。バッハがつけた標題は、「通奏低音なしのヴァイオリンのための6つの独奏曲 第一巻 J.S.バッハ作曲 1720年。」この「通奏低音なしの」というくだりは、当時の室内楽が、和声を担う通奏低音楽器群(チェンバロ、チェロ、ヴィオローネ、ファゴットなど)を組み入れるのを常としていましたから、それを使わない、いわば例外的であった、ということを強調しています。バッハ以前にも、T.バルツァー、N.マティス、J.H.シュメルツァー、J.P.ヴェストホフ、H.I.F.ビバー、J.J.ヴァルター、J.G.ピゼンデルなどがこのジャンルの曲集を書いていますので、バッハが新しく開拓した、というわけではありません。しかし、バッハの曲にみられる書法、つまり弦楽器に焦点をあてて徹底して追求した対位法の書法は、音楽的関心や技巧的要求という面で先駆者の範例を遥かに超えています。少し逸れますが、これに続くチェロ用の6曲が「第二巻」(自筆譜は消失)とされていたというのが通説です。
 何の目的があってバッハはこの曲集を書いたのでしょうか。教育用にしては、レヴェルが高すぎますので、誰かに献呈したのではないか、という説が有力です。バッハがヴァイマール時代に親交をもった当時一流のヴァイオリン奏者J.B.ヴォリュミエ(ドレスデン宮廷楽団の楽師長で、ルイ・マルシャンとの競演を計画)やピゼンデル(ヴォリュミエの後継者)、それに、続くケーテン時代に楽長バッハのもとで楽師長を務めていた名手J.シュピースらがその有力候補として挙げられていますが、それを証明できる証拠はまだ見つかっていません。
 生前のバッハは、主にオルガンの名手としてドイツ中にその名が知られていました。1717年にドレスデンで行われたマルシャンとの競演の逸話や、バッハの足鍵盤の演奏の凄まじさを称えた話など、彼の名人芸は死後半世紀もしばしば話題にのぼるほどでした。バッハはオルガンの鑑定家としても著名で、ドイツ各地から20度ほど招待されています。もちろん、その検査を終えたばかりの新しいオルガンで試奏を披露した際の興奮を伝える報告もいくつか残っています。当時の演奏は録音として残っていませんので想像しかできませんが、バッハの演奏の様子は彼の残した膨大な作品群にある程度正確に反映されています。卓越したペダル演奏技巧、複数の独立した声部を様々な対位法技法を通して渾然一体とさせるその手腕、曲の大きな構想、特に小さな何気ない主題から様々な楽想を引き出し、論理的でかつ情熱的に進行してゆく曲の流れなどは、どのジャンルにも共通して見られるバッハのトレードマークです。加えて、彼の卓越した即興演奏の能力や、様々な楽曲形式や様式の知識、それに楽器の構造やホールの音響に関した深い見識は、バッハの演奏に強烈な方向性を与えたことでしょう。こうして音に託された天からのメッセージは聴衆の心に深く刻み込まれ、深い感銘を与えたのです。
 その鮮明なバッハ像と比べ、バッハのヴァイオリン演奏に関した情報は、伝記資料から全くといって良いほど欠けています。逸話として語り継がれるほどのインパクトが無かったのではないか、と疑いたくなるところですが、実際に事情をきちんと踏まえてみていけば、その負のイメージというのは錯覚に過ぎないことが分かってきます。「楽器の王」といわれるパイプ・オルガンは、その町の顔となる大切な楽器ですから、それを弾くオルガニストの地位も必然的に政治色が濃く、それなりの社会的地位もありました。既に名声を博していたバッハが行ったオルガン演奏会というのは、特別にアレンジされた独奏演奏会でしたから、その模様が記録として残っていて当然といえるでしょう。それに比べ、ヴァイオリン奏者の社会的地位は(雇用者にもよりますが)概して低く、その演奏の模様はあまり文書として残っていません。バッハが指導・指揮をしたコレギウム・ムジクムという学生を中心とした合奏団のコンサートのプログラムも現存していませんので、誰がどんな曲を演奏したのかなど、未だに分からないことが断然多いのです。
 とはいえ、周辺情報からある程度のことは推測できます。バッハが10歳の時に他界した父は、アイゼナハの町楽師として弦楽器を担当していましたから、バッハは幼い頃に父からヴァイオリンの手ほどきを受けたことは当然考えられます。実際、バッハの最初の職はヴァイオリンの演奏でした(ヴァイマール宮廷の楽師、1703年)。その約半年後、アルンシュタットの新教会のオルガニストの職を得て、しばらくは名オルガニストへの道を歩むことになるのですが、1708年にオルガニスト兼宮廷音楽家としてヴァイマールの宮廷に戻った時には、ヴァイオリンの演奏も仕事のうちであったと考えられます。1714年には楽師長へ昇格しましたから、ヴァイオリン奏者としての腕もかなりであったことは確かでしょう。遺産目録にも載っているように、バッハは名器として知られるシュタイナーを所持していました。また、室内楽曲の作曲面でも、「無伴奏」の他にもヴァイオリンにソロ・パートを書いていますし、ヴァイオリン・コンチェルトも3曲書いています。つまり、バッハにとってヴァイオリンはオルガンやチェンバロに次いで得意とする楽器であったわけで、オルガン曲に見られるバッハの作曲家としての鋭い洞察力がヴァイオリン曲にも当然ながら反映されています。しかも、この楽器のもつ特徴にあわせて表現や書法が幾分調整されています。ここで特に重要なのは、4本の弦と1本の弓で複数の声部の対話を練り上げて行かねばならないという、いわば不可能への挑戦と言うべき課題が含まれていることです。出せない音をいかに頭の中で響かせることができるか、という命題を自分に課しているのです。演奏者は、バッハが熟慮断行の末に調整した、いわばその潜在的要素を常に意識し、バッハの意図を適宜に顕在化していくように努めねばならないのです。
 バッハのヴァイオリン演奏に関した記述で、現在知られている唯一の資料は、1774年に次男のカール・フィーリップ・エマヌエルが、『バッハ伝』(1802年に刊行)を執筆予定のフォルケルへ書いた手紙の中で、父に関する情報を提供するという文脈で回顧したものです。
「彼は青年時代からかなりの高齢まで、ヴァイオリンを澄んだよく通る音で演奏し、オーケストラに整然とした秩序をあたえるのでしたが、同じ事をチェンバロを使ってやるよりは、この楽器でやるときの方がうまくゆくようでした。彼は全ての弦楽器の持つ様々な可能性を完全に把握していました。彼の低音部無しのヴァイオリンおよびチェロの独奏曲がこのことを立証しています。優れたヴァイオリン奏者となるための教材として上記のヴァイオリン独奏曲以上に完全なものは見たことが無く、また学習者たちに対してもこの作品以上にうってつけのものを勧めることはできないだろうと、当世最高のヴァイオリンの名手が私に語ってくれたものです。」

このエッセイは、東京・文京区のトッパンホールの特別企画「バッハ没後250年記念演奏会」第1夜のプログラムに掲載されたものです。


    ヴァイオリン:矢部達哉  チェンバロ:野平一郎(チェンバロ) 

    2000年10月19日(木)19:00開演(18:30開場) トッパンホール

    J.S.バッハ
    無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番 ホ長調 BWV1006
    無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
    無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV1001
    ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第4番ハ短調