ゴルトベルク変奏曲
(BWV 988)
《ゴルトベルク変奏曲》(BWV 988)は、バッハが《クラヴィーア練習曲》と題し出版した最後の作品で、低音主題を優雅で技巧的な変奏で華やかに飾った大作である。バロック時代に出版されたクラヴィーア曲集では最大の規模を誇り、ベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》が古典派を代表する変奏曲として広く認められているように、《ゴルトベルク変奏曲》はバロック音楽を総括する作品としてそびえている。しかし、練達した技巧を演奏者に要求する大曲の宿命か、生前未出版だった《平均律クラヴィーア曲集》以上に、あまり一般には知れ渡らなかった。それでも当時すでにバッハの音楽を高く評価する専門家の間では、バロックを代表する変奏曲とみなされ、弟子のキルンベルガーが1774年に「最高の変奏」と評しているのを始め、フォルケルは1802年に書いた世界初の『バッハ伝』で「全ての変奏曲が模範とすべき作品」と称えた。
《クラヴィーア練習曲》シリーズ
《ゴルトベルク変奏曲》の通称の所以
作品の歴史的背景とオリジナリティ
曲集の性格と構造
バッハの隠された究極目的?
私蔵保存本
《クラヴィーア練習曲》シリーズ
1741年に刊行されたこの《ゴルトベルク変奏曲》の出版譜には、次のような表題がついている。
クラヴィーア練習曲集。
2段の手鍵盤のチェンバロのためのアリアと様々の変奏曲からなる。音楽愛好家の心の慰めのために、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家、楽長、ライプツィヒ合唱音楽隊監督ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲。ニュルンベルクのバルタザル・シュミットより刊行。
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バッハが出版した作品は全創作のほんの一握りに限られているが、それは楽譜の出版には、相当の財政的負担が伴ったし、多忙のバッハには時間的にもあまり余裕がなかったからである。そういった状況の中でバッハは、《クラヴィーア練習曲》というものを出版してみようと企んだ。やはり一人前の音楽家としての野心とプライドがあったのであろう。実際には、トーマス・カントルに就任した3年後の1726年から《パルティータ》を一曲づつ出版したのが発端であったが、曲集の規模と内容をよく観察すると、バッハはそのアイディアを彼の前任者、ヨハン・クーナウ(1660~1722)の作品《新クラヴィーア練習曲》(1689/1692年)に倣ったことがまず考えられる。バッハはこの《パルティータ》全6曲を1731年にまとめて「作品1」とし、さらにシリーズを続けていく意志を表明した。その後、1735年には第2部、すなわち《イタリア協奏曲》と《フランス風序曲》が、1739年には第3部の通称「ドイツのオルガン・ミサ」が続いた。ここまでは、約4年おきの刊行であったが、シリーズ最後となった《ゴルトベルク変奏曲》が刊行されたのは、それから2年後であった。ここまでざっと15年の歳月が流れていた訳であるが、その間に出版された作品は他にはない。
ここで目につく「練習曲」という言葉は、初心者用の指の練習という教育的な意味ではなく、多種類の鍵盤楽器のための様々な作曲様式による作品をひとまとめにするのに好都合な曲名であったのであろう。バッハは多種多様の曲を網羅すると同時に演奏技巧的にも高度なものを世に送り出した。このことは、《インヴェンションとシンフォニア》や《平均律クラヴィーア曲集》の表題にある「若い音楽家の学習の手引き」云々というような記述が見られないことからも明らかなように、バッハは《クラヴィーア練習曲》を「音楽愛好家」へと絞ることにより、高い次元の音楽を描いていたのである。しかし結果的には、市場の中心である中流階級の愛好家には難しすぎたため、売れ残りが多く出たようだ。
この《ゴルトベルク変奏曲》の表題には、いくつかの謎が潜んでいる。例えば、これに先立つ《クラヴィーア練習曲》第1部から第3部までの表題に含まれていた曲集番号が欠けていることである。つまり、ここには「第4部」という記載がないのだが、これはどのように理解したらよいのであろうか。この疑問に対してクリストフ・ヴォルフは、出版社側の事情に答えを見出している。《ゴルトベルク変奏曲》を刊行したシュミットは、当時の出版事業界では名が通っていたが、《クラヴィーア練習曲》の第2部と第3部では、他の出版社の下請けとして仕事をしていたのみで、一部の銅板作成にしか関わっていなかった。しかし今回は、全ての銅板の製造から印刷、販売まで一手に引き受けることなったのである。そういった経緯から、ヴォルフは「第4部」という記載を商売上の理由で嫌ったのでなないだろうか、と推測している。確かに、自分が関わったり販売していない曲の注文を受けないためには、こうするのが一番良いであろう。しかし、疑問も残されている。例えば、バッハ側がそれを譲歩したりするであろうか。もし仮に「第4部」という記載がバッハにとって重要な意義を持っていれば、頑固なバッハが出版社側の些細な都合に妥協するはずがない。つまり、バッハは初めからこの曲集を他のシリーズから切り離して考えており、「第4部」とは呼ばないことにした、と考えた方がしっくりくる。そんな記述はどこにも遺されていないので、どんな理由があったのかは想像を巡らせるしかない。それでも、曲中に見出すことのできる内的証拠を頼れば、曲集の根底にある数の象徴の概念が最も怪しい。例を挙げれば、第1部が一段鍵盤、第2部が二段鍵盤と当時の支配的な2様式、第3部が三つの鍵盤(=二段の手鍵盤とペダル)や、曲の隅々にわたって「3」という数字が秩序を構成しているなどの事実である。当の《ゴルトベルク変奏曲》には、後に詳しく述べるが「4」という数がどうしてもみえてこないのである。一体全体《クラヴィーア練習曲》の第4部に《ゴルトベルク変奏曲》が来なければならない必然性は存在するのであろうか。ヴォルフは「4部の《クラヴィーア練習曲》は統一体である」と主張するけれども、作曲の根底には、全く別の目的があったように思えてならない。
《ゴルトベルク変奏曲》の通称の所以
この《ゴルトベルク変奏曲》という名称は、前述のフォルケルの著書に由来する19世紀以降定着した通称で、出版当時はそうは呼ばれていなかった。しかし、バッハの息子たちから信憑性の高い情報を得ていたフォルケルだけに、少し掘り下げて考察してみる価値はありそうである。彼はこの曲の解説で以下のように述べている。
「…この作品…は、ザクセン選帝侯宮廷駐在の前ロシア大使、カイザーリンク伯爵のおかげで生まれた。伯爵はよくライプツィヒに滞在し、…ゴルトベルクを連れてきてバッハから音楽のレッスンを受けさせた。伯爵は病気がちで、当時不眠症に悩まされていた。当時伯爵の家に住んでいたゴルトベルクは、伯爵が眠れない時は隣り合った部屋で夜をすごし、伯爵に何かを弾いて聞かせねばならなかった。あるとき伯爵はバッハに、眠れぬ夜に気分が晴れるように、穏やかでいくらか快活な性格をもったクラヴィーア曲を、ゴルトベルクのために書いて欲しいと言ってきた。変奏曲というものは、基本の和声が常に同じなので、バッハはそれまでつまらない仕事だと思っていたのだが、伯爵の希望を叶えるには変奏曲が最もよいと考えたのである。しかし、この頃のバッハの作品は模範的芸術というべきものばかりで、この変奏曲も彼の手によりそうなった。…伯爵はその後この曲を『私の変奏曲』と呼ぶようになった。彼はそれを聴いて飽きることが無く、それから長年の間、眠れぬ夜がやってくると、『ゴルトベルクよ、私の変奏曲から何か一曲弾いておくれ』と言いつけるのであった。バッハはおそらく、自分の作品に対してこのときほど大きな報酬を得たことはなかったであろう。伯爵はルイ金貨が100枚詰まった金杯をバッハに贈ったのである。」
この成立についての有名なエピソードについては、懐疑的な意見が多い。まず、この曲が依頼されたという証拠がないし、出版譜に当時の習慣であった献辞もない。また、ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク(1727~56)の演奏能力がいかに長けていたとしても、バッハは伯爵に連れられてライプツィヒにやってきた少年の技能を知っていたわけで、出版時に14歳の少年であったばかりか、ゴルトベルク自身の作品からもその輝かしい技巧が見当たらないのである。そして最後に、遺産目録に例の金杯がリストされていないことである。
しかし、フォルケルの情報はある程度事実を含んでいると仮定して、事実関係を洗い直してみると、献辞を含んだ筆写譜を作成して献上した可能性も考えられるし、以下のような説明も可能である。すなわちバッハは1741年11月にドレスデンに赴いてカイザーリンク伯爵邸を訪ねた際に、刷り上がったばかりの《ゴルトベルク変奏曲》の楽譜を一冊献呈し、逸話はその後に深まりつつあった交友関係から偶然に発生したというものである。事実バッハはポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家の称号を得たとき(1736年)に力になってくれたカイザーリンク伯爵に恩を感じており、曲の依頼の有無に関わらず、出版譜を一部献上したであろう。作品の依頼の件が事実であったとしても、カイザーリンク伯爵の意向のみがこの変奏曲の様式と構造を決定的にしたとは考えにくい。眠くなるどころか、反対に興奮して眠れなくなってしまうのではないだろうか。1741年からは、伯爵の一人息子がライプツィヒ大学へ入学したことから、自然と交流が深まったのは想像に難くない。また、親しい交流があれば、冗談の一つも飛ばしてみたくなるもので、「金杯に金貨が山盛り=ゴルト(金)ベルク(山)」という逸話が誕生したとするのは行き過ぎであろうか。不眠症の話も、そうなると話に花を咲かせる健全な嘘である可能性も否定できまい。フォルケルに情報を流したフリーデマンとエマーヌエルはその時にはライプツィヒにいなかったのであるから、そういった事実関係は知らなくて当然であろう。どうやらこの件については新たな事実関係が明るみに出ない限り、迷宮入りのままである。
作品の歴史的背景とオリジナリティ
バッハの出版譜にはいつ出版されたかが記されていないため、これまでは当時の新聞記事や手紙などから割り出していた。より正確な情報が得られたのは、つい最近になってのことで、他の印刷譜との前後関係、印刷に用いられた銅板の特徴や修正の跡を印刷譜から読み取ったり、印刷後に記入された注釈などの書き込みの筆跡を分析する作業などを通して研究が進められてきた。そうしてグレゴリー・バトラーは《ゴルトベルク変奏曲》が1741年のミカエル祭見本市に刊行されたことを突き止めた。1741年といえば、《平均律クラヴィーア曲集》第2巻の編纂が終盤にあり、この二つの記念碑的な作品はある程度同時進行で進められていたである。
既に述べたカイザーリンク伯爵の依頼の件が本当であったとしても、バッハがなぜ「変奏曲」という楽曲形式を選んだのかははっきりとは分かっていない。一世代前のコレッリや同世代のヘンデルやラモーが優れた変奏曲を出版していたのに対し、バッハは変奏曲という形式を青年時代に《コラール・パルティータ》や《アリアと変奏 イ短調》等の小品で用いたのみで、バロックも終局を迎えた時分には、変奏曲とは教育用の技巧的に易しいものという概念が定着しつつあった。フォルケルが述べている「基本の和声が常に同じなので、バッハはそれまでつまらない仕事だと思っていた」というのはよく納得できるが、そういった時代の流れに逆らい、《ゴルトベルク変奏曲》をこの世に送り出したところが、研究者の野心をくすぐる。その真相は、後に探ることにして、歴史に話を戻そう。バッハは、この二つの曲集を完成させた後、《フーガの技法》の作曲に取り掛かった。《平均律》で扱った彼の得意とするフーガという形式を、《ゴルトベルク変奏曲》で見せた単一主題を基本とする構成と融合させた点で、バッハの創作活動の繋がりをここに確認できよう。
《ゴルトベルク変奏曲》の冒頭と結末に奏される「アリア」はバッハが妻に贈った《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集》第2巻(1725年)に彼女の手で書き込まれている。そこには、作曲者名も題名もない。また、その低音旋律は17世紀初頭に既にみることのできる伝統的なものであるため、このアリアは作者不詳である可能性が考えられるのである。つい最近までは、これらの史実を真っ向から受け止め、バッハが16年前のアイディアを借りてきたという主張や、バッハがこのアリアの作曲者ではないという意見が主流であった。更に議論はエスカレートし、転調の仕方や装飾の観点からもバッハらしくないという様式分析からの主張がそれを後押しした。そのクライマックスとして、非バッハ説を唱えるフレデリック・ノイマン(1985年)と是バッハ説を主張するロバート・マーシャル(1976/89年)による熱烈な論争が繰り広げられた。これを資料分析の立場からみると、どうやらマーシャルに軍配が上がりそうだ。このアンナ・マグダレーナによる書き込みは1740年以降の筆跡であり、今まで何も記入されていなかったページに彼女がバッハの自筆譜から写したものであることがある程度証明されるからである。
それに倣ったかのように最近の様式研究もバッハ側に傾いてきた。デイヴィッド・シュレンバーグは1993年の著書において、このアリアがイタリアでもフランスでもなくドイツのギャラント様式であることを説いており、特に最終フレーズに向けての美しくなびいたリズム等、特定の細かい部分がバッハのアイデンティティを映し出していると主張している。
曲集の性格と構造
この曲集は二つの手鍵盤をもつチェンバロのために書かれているが、バッハの晩年の作品に顕著な壮麗な構造美はもちろんのこと、当時のバッハとしてはモダンで古典派の表現要素を多く提示しているのが大きな特徴である。
その曲の構造を統一しているのが、全部で32音にわたる低音主題とそれが内包する和声進行である。その和声リズムは楽曲を通して一貫しており、全32小節から成る冒頭のアリアの各小節に一つずつ丁寧に割り当てられている。この主題はその原形では一度も現れず、常に線的に装飾されている訳であるが、曲によっては和声的にも多少の変化が加えられていたり、腕の交差を用いた変奏では、高音部に移行されていたりする。
このアリアは繰り返しを持つ二部形式のサラバンド舞曲で、曲の前半と後半が16小節ずつに均等に分けられている。他の30の変奏曲も、曲の性格を決定づける拍子記号や小節数こそ変化に富んでいるものの、このシンメトリーの構造は主題と共に受け継いでいる。この構造の概念は、曲集全体にも明確に反映しており、全32曲は、16曲ずつに二分されている。第2部の冒頭である第16番はフランス風の序曲であるが、その前の第15番のカノンがト短調であることも手伝って、華やかに幕を開けている。このように「数」とシンメトリーの概念が曲の構造の要になっており、緻密に秩序だてられている。
各曲の配置に目を向けると、冒頭と巻末に「アリア」と題された優雅なサラバンド舞曲があてがわれ、それに挟まれるように30の変奏曲が置かれているのがわかる。変奏のうち、9曲が厳格なカノンで、3曲毎に現れ、しかも同度のカノン(第3変奏)で始まり最後の9度(第27変奏)まで順次上行するように配列されている。つまり、カノンは「3」という数字によって支配されている。より細かく見てみると、実は3曲が1組になり、それは概して自由な変奏、デュエットによる変奏(主にトッカータ)、カノンにより構成されており、それが10組存在する。最後の変奏である第30番は10度のカノンではなく、「クオドリベット」という特殊な曲がクライマックスとして配置されている。「クオドリベット」というのは、よく知られた複数の旋律を組み合わせて作った曲のことで、ここでは二つの民謡「長い間会っていないな、こっちへ来いよ、来いよ、来いよ」と「キャベツとかぶらがおれを追い出したのさ。かあちゃんが肉を作ったらずっと居たのに」が対位法的に処理されている。長い間忘れていたアリアへと戻る際に、これまでの逸脱をはにかむバッハのユーモアが感じられる。また、その他の自由な変奏には、2声のインヴェンション、フゲッタ、フランス風序曲、トリオ・ソナタ、それに種々の舞曲が取り入れられ、特に曲集のクライマックスに向かって技巧的な性格が顕著になってくる。その中でも特に迅速で派手に動き回るパッセージや、猛烈なスピードを要求する腕の交差のテクニック、それに内声部に現れるトリルは、バッハの他のクラヴィーア曲にはあまり見られない曲芸的な技巧で、バッハは自分が演奏の大家であることを意識的にアピールしているかのようだ。その背後にはドメーニコ・スカルラッティが1738年に出版したソナタ第1巻《エッセルティーツィ》(練習曲)を意識し、それに対抗した可能性も考えられる。
バッハの隠された究極目的?
この曲を構造の上から2分したり3曲のグループに分けたりといった楽曲分析は未知の事実を探るという面で知的で満足感のあるものだけれども、どこまでが歴史的な流れに基づいたバッハの意図であって、どこからが我々の主観的な歴史観の捏造なのか、その判断が難しいところだ。例えば、ディヴィッド・ハンフリーズは1984年の論文で、演奏家の間で信じられている従来の説(つまりバッハがこの作品に与えた体系とシンメトリーは純粋に音楽的な工夫であるという解釈)は間違いだとし、この曲の配列はプトレマイオスの宇宙観を描く「寓話的配列 allegorical
scheme」で説明できると主張している。彼は、まず27の変奏を3つのサイクルに分け、それぞれカノン(3,
6, 9, ... 27)、惑星(4, 7, 10 ... 28)、名手(5, 8, 11 ... 29)と名づけ、それぞれをプラトンの宇宙哲学や幾何学、それにバッハの表現方法にみられる情緒説の要素と結び付けて論証を試みている。しかし、我々としては多忙のバッハがそのような音楽外の抽象的で深遠な問題に真剣に取り組んでいたのかどうか、その真相は全くわからない。どうやら音楽的な統一を耳で感じられない音楽学者にとっては、秘められた真理の発見が唯一の「心の慰め」となるようである。
バッハがこの曲に託した究極目的を探る研究の中にも、とても面白いものもあるので、ここに簡単に紹介しよう。それはアラン・ストリートが1987年に発表した論文で、その中でバッハはある特殊な音楽外の意図を持っていたと主張している。それは、バッハが1737年とその翌年にヨハン・アドルフ・シャイベ(1708~76)から批判攻撃を受けたことに対するバッハの「音楽論文」による反撃だというのである。特に興味深いのは、バッハが「学問に精通していない」、また「感動的な作品も表情豊かな作品も書くことができない」とシャイベに批判されたために、《ゴルトベルク変奏曲》で修辞学の知識と流行の様式を駆使することにより、徹底的に論破した、というシナリオである。ストリートは、バッハが当時よく読まれていた古代ローマの雄弁家・修辞家クウィンティリアヌスの著書、「弁論術教程」をひもとき、その雄弁家の義務と手段をインスピレーションとしたと仮定し、結果的には、クウィンティリアヌスの説く法廷の修辞を用い、シャイベの告発に対し、反駁する、という風に展開していく。その過程を可能にしているのが変奏曲という形式で、クインティリアヌスの主張するところの「最高の言葉は内容で仄めかすべし」という原理と変奏曲の特徴である主題の繰り返しの原理とを結び付けている。もう少し具体的に見ると、まず曲集の序章であるアリアでは原告側の言葉(つまり「新しい様式」)を使うのが効果的だとし、第1変奏から始まるシャイベの告発に対し、バッハは第16変奏から反駁を開始するのである。また、クライマックスのクオドリベットでは、「バッハ(=かあちゃん)がこの変奏曲(=キャベツとかぶら)でシャイベを追い出す」とちゃかしている。もし、この説が正しいとすると、なぜ《ゴルトベルク変奏曲》が《クラヴィーア練習曲》の第4部と命名されなかったのか、なぜ「変奏曲」という形式を今更持ち出したのか等、数々の謎が解けてしまうというおまけつきである。
私蔵保存本
既に引用したフォルケルの楽曲解説には続きがあって、「この変奏曲の印刷本にはいくつかの重大な誤りがみられ、作者は私蔵保存本においてそれらを注意深く訂正した」とある。その事実が、1974年にストラスブールで発見されたバッハの私蔵保存本に確認された。バッハは、その初版譜の一冊において修正と追加を書き入れていたのである。殆どの記入に赤インクを使っていることから、バッハは改訂版を刊行するつもりでいたようだ。多くの修正は彫版の作成時に混入したものが原因になっているが、バッハ自身が後になって行った改良もここに確認できる。例えば、テンポ表示(第7変奏にal
tempo di Giga、第25変奏にadagio)が追加されているのを始め、数々の変奏に追加されたスタッカートやスラー等の演奏記号、それにモルデントや前打音などの装飾記号は演奏を正しく解釈する上でとても参考になる。自筆譜が既に紛失してしまった現在、この曲集における編纂の過程はここに認められる修正部分と、アンナ・マグダレーナの手によるアリアの筆写譜にしか残されていないのである。
この私蔵保存本に確認できる最も大きな収穫は、これまで知られなかった《14のカノン》(BWV
1087)であろう。これらのカノンは、アリアの低音主題冒頭の8音によるもので、巻末の未使用のページにバッハの手で丁寧に書き込められている。これらのカノンは、殆ど全てのカノン手法を網羅しており、その技巧の難度が順に上がっていくようにアレンジされている。しかし、それらの内容を見てみると、楽想よりもカノンの展開の可能性を重視しており、極めて理論的な性格が強い。この「14」という数字は、バッハの名前(BACH
= 2 + 1 + 3 + 8 = 14)と解釈されるのが常である。バッハは1747年6月にミッツラー主催の音楽学術交流協会に第14番めの会員として入会したし、その入会にあたってバッハはこの第13番のカノン(改訂稿)の印刷譜を提出した。このカノンこそが、かの有名なハウスマンによるバッハの肖像画にでてくる楽譜(BWV
1076)である。バッハは《ゴルトベルク変奏曲》の巻末に音楽でサインをしたのであった。
(c) Yo Tomita,
1997
このエッセイは、キングレコードよりリリースされた鈴木雅明氏のCD(KICC−214)の楽曲解説として書いたものです
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