平均律クラヴィーア曲集 第1巻
(BWV 846-869)
《平均律クラヴィーア曲集第1巻》(BWV 846-869)は、高い芸術性を掲げた画期的な教育用の作品であった。無数にあるバロックのレパートリーの中で、この曲集ほど広く親しまれ、演奏され、研究されてきたものは存在しない。それを反映するかのように、この曲集に纏わる有名な逸話もたくさんあるのだが、その中でもハンス・フォン・ビューローの『ピアニストの旧約聖書』と、R.シューマンの『ピアニストの日々の糧』は、今日でも音楽教育の場で耳にする言葉である。
生前には出版されなかったが、弟子が作った筆写譜により、この曲集はバッハの名声と共にヨーロッパ各地へ着実に広まっていった。それらはモーツァルトやベートーヴェンまで届き、西洋音楽の流れに大きく貢献した。出版はバッハの死後51年目にして初めて実現したが、それはバッハの息子や弟子達の情熱的な支持と努力の賜物であった。
表題とその歴史的背景
成立過程と改訂の歴史
曲集の歴史的位置
曲集の性格
曲集の構造、形式とスタイル
演奏の諸問題
表題とその歴史的背景
バッハ自身の手による浄書譜(ベルリン国立図書館所蔵)には、次のような表題がついている。
平均律クラヴィーア曲集、
あるいは、
すべての全音と半音を用い、長三度、すなわち『ド・レ・ミ』の関係、それに短三度、すなわち『レ・ミ・ファ』の関係を網羅するプレリュードとフーガ集。学習欲に燃える若い音楽生の有益な手引きとして、また既に、これらの学習を終えた人々にとっては、格別な楽しみとなるために、現アンハルト・ケーテン侯宮廷楽長兼同宮廷楽団監督ヨハン・セバスチャン・バッハがこれを起草し、完成す。
1722年。
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表題に《平均律》という難解な語彙が使われている背景には、24全ての調を聴くに耐えうるように調律された鍵盤楽器が、当時それ程普及していなかったことを示唆する。18世紀後半から20世紀中頃までは、この語は今日普及している12等分平均律を指している、と一般的に考えられていた。この言葉の歴史的意義を探っていくと、A.ヴェルクマイスターの提唱する一連の音律論革命の歴史に辿り着く。それと同時に、もうひとつの歴史の流れである調組織の確立という史実があった。バロック初期から、多種類あった教会旋法がほぼ二種類に限られてきており、転調が自由になり、使用される長調と短調の種類が増えつつあった。1720年代にバッハが理論上可能な24の全ての調を使ってみようと考えた背景には、そういった歴史の流れがあった。その意味でこの曲集は、画期的で、また唱道的でさえあった、と後世は考えたのである。
この解釈に疑問を投げかけたのはJ.M.バーバーだった。1947年に彼は、この曲集は、《程よく宥めすかされたピアノ》と解釈すべく提唱した。その後、この《平均律》は数ある古典的調律法のひとつを指すのだろうという意見が主流になった。その調律法は、個々の和音に純度の差を許すため、全ての調に独特な性格を植え付けることになったのである。
この議論は1985年にR.ラッシュの多角的な研究によって再び覆されることになる。バッハの《平均律》が12等分平均律であったという彼の主張は、今の我々には無謀に聞こえるかも知れない。しかし、息子や弟子によって伝えられるバッハの調律についての技術や見解、それに彼自身が頻繁に移調を試みている事実などを照らし合わせて考察してみると、納得ができないこともない。
《クラヴィーア》は鍵盤楽器を意味するが、そういう名の特定の楽器は存在しない。20世紀初頭までは、それは一般的にクラヴィコードだと解釈されていた。確かに18世紀末期にクラヴィーアがクラヴィコードを指していたという史実がある。しかし、バッハの時代には、鍵盤楽器全体がクラヴィーアと呼ばれていたことが明らかになってきた。バッハ自身はどうだったのかというと、彼自身はオルガンと、他の弦を用いた小さな鍵盤楽器とを区別して指定しており、後者をひっくるめてクラヴィーアと呼んでいた。そうすると、大まかに分類して、クラヴィコード、フォルテピアノ、チェンバロ、がこの部類に属することになる。ここに明らかなように、バッハは楽器を音の性質によって区別していたのである。作曲にあたり、演奏会場、演奏目的、また演奏家と聴衆の関係を考慮に入れる必要があったからである。このことはまた、曲の様式や性格を論じる上で大変重要になってくる。
それでは、バッハはクラヴィーアという楽器群の中のいったいどの楽器を好んで使ったのだろうか。この曲集全体をみてみると、第4番や20番のフーガのように、オルガンが一番適しているものもあるが、後に述べるH.N.ゲルバーの回顧録にあるように、バッハはその全曲を家にある「すばらしい」楽器で演奏したのである。曲集全体を一つの楽器で演奏するとなると、幾つかのストップを持ったチェンバロを選ぶのが一番妥当であろう。また、曲集の使用している音域、つまりCからc'''という4オクターヴにまつわる議論であるが、バッハは自分が所有していたクラヴィコードを想定して作曲したという従来の説は、少し視野が狭いかと思われる。バッハは曲集の幅広い普及を考慮し、当時一般的であった楽器に焦点をあわせた、と見る方が論理的でかつ説得力がある。
成立過程と改訂の歴史
この自筆浄書譜の表題に記された『1722年』はバッハにとって生涯の一番の大きな区切りを意味した年でもあった。5年前にケーテンへ晴れて栄転したバッハだったが、レオポルト侯の新しい妃は音楽嫌いで、居心地が悪くなってきたようだ。この年末に心はもうライプツィヒへ行っていたのである。その合間にこの曲集が完成された。それと並行して、第二の妻となったばかりのアンナ・マグダレーナのために《クラヴィーア小曲集》を書いたり、翌年には《インヴェンションとシンフォニア》の浄書譜を完成させる等、体系的で優れた教育用のクラヴィーア曲を仕上げるのに力を注いだ。
現存する筆写譜の研究を通して、バッハがこの曲集を起草するにあたって、いかに腐心したかが明るみに出てきた。この分野ではA.デュルとR.ジョーンズのごく最近の資料研究が最も優れている。この曲集を完成させるにあたって、バッハには、以前に作曲した作品を寄せ集め、少しずつ改訂を重ね、より完全な形へ作り上げていく、という目標が根底にあったようだ。曲の構成全体に光を照らしてみると、《平均律クラヴィーア曲集》の要である体系の基礎、つまり一対のプレリュードとフーガが24の全て異なる調によって書かれ、ハ音を主音として開始し、長調と短調の順を厳守しながら半音階で上行を繰り返しロ短調で終結する、というアイディアは、実は修正を重ねながら徐々に定着していった、という事実が浮かび上がってくる。その上、今日では現存しないバッハの初期稿から派生したと考えられる筆写譜には、数々の異形が初期の形として確認され、それは曲集の構造の変遷の歴史と、また同時期に計画されていた他の曲集の構造と年代学的に一致を見ることができる。それを順に追っていくと、J.C.F.フィッシャーのアイディア(後述を参照)に遡ることができる。更に主題の類似性も観察できることから、彼の曲集がインスピレーションとなったことは疑う余地があるまい。
この曲集の成立過程は、3つの過程に分類し再現することができる。まず第1過程では、12曲のプレリュード(第1?8番、10番、12?13番、15番)が最終版より短いが、これらが曲集の前半に集中しているのがとても興味深い。またフーガも《フゲッタ》(小フーガ)と題されている。しかし曲自体は、第15番と22番(ともに1小節短い)を除いては、細かい違いしか認められない。第2及び第3過程は、1720年にバッハが当時9歳の長男のために書いた《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集》に垣間見ることができる。そこには、11曲のプレリュードのみが初期版として含まれているが、上行する全音階の体系でハ長調からヘ長調まで(C,
c, d, D, e, E, F)が第2過程、そしてそのシリーズに半音で穴埋めをする形(Cis,
cis, es, f)が第3過程である。これらを曲としての成熟度から観ると、第2過程は、第1過程に少し改訂を加えた形になっており、第3過程は最終版へ近い。つまり、ここにも年代的ずれが観察されるのである。バッハの弟子(研究者の間でAnon.5として知られている)が1722年末から翌年にかけて作成した筆写譜にも、この第3過程が反映している。ここでは、半音音階上に並べられた24全曲が収められているが、第2過程で見られた全音階の名残が、長調と短調の順序の乱れとなって3ヵ所(d/D,
e/E, a/A)存在するのが興味深い。この筆写譜は、後にバッハの自筆浄書譜版へとアップデートされることになるが、もうこの時期にプレリュード第1番から15番までは、短いエチュードから立派な作品として、フーガに引けを取らないまでに成長していた。また、演奏技術と楽曲様式の観点からもう一度じっくり考察してみると、第2過程にみられた7曲には、グループとしてのアイデンティティーが確かに認められる。また、この初期稿に見られる改訂全体を眺めてみると、フーガがそれほど手をつけられていないのに対し、プレリュードが膨大に拡張されているのが分かる。第2過程にフーガが見られないことから、この曲集においてプレリュードとフーガというペアは、ある程度別々に作曲された可能性が高いと考えられる。
この曲集を完成させるにあたり、曲の途中の転調によってでさえ滅多に見られない調を扱わねばならないというのが、一つの厄介な問題であったことは容易に察することができよう。実際バッハが、これまで4つ以上のシャープやフラットを持つ調号を用いてクラヴィーア曲を書いたという事実はない。現存する筆写譜の研究から、バッハが別の易しい調から移調した形跡が認められるのは、第8番のペア(es/dis:それぞれe/dから)、18番(gis:gから)、それに24番(h:cから)である。それに加え、バッハは初期稿に於いて、旋法式のシャープやフラットが1つ少ない調号を頻繁に使っており、調号の記譜にも年代を示唆する推移が確認できる。
また、曲の性格を決定づける拍子記号も改訂されたようだ。プレリュード第8番の2分の3拍子は4分の3から、また13番の16分の12拍子は8分の12から変更された可能性が高い。
さて、そうして1722年までに初期稿が完成し、最終版として自筆浄書譜が確固たる信念に基づいて記されることになる。その後20年以上も大切に使用され、小さな改訂が継続的に加えられていくことになったが、その堂々とした筆致には、バッハが如何に精魂を傾けて書き上げたかが容易に読み取れる。巻末にはバッハの浄書譜の最後によく見られる『神のみに栄光あれ』(S.D.G)というサインがしてある。バッハがこの時点で出版を考慮した形跡はない。弟子が学習のために必要な場合には、バッハは初期稿に手を加えては貸し、この浄書譜は約20年もの間、弟子には使わせなかった。そういう知られざる史実が弟子の筆写譜に証拠となって存在する。
バッハの改訂はそれ自体大変興味深い。1977年のW.デーンハートの研究により、それは4つの段階に分類できる。第1段階は、自筆浄書譜が最初に書かれた時で、最少の修正と最終フーガの興味深い訂正を含む。第2段階では、プレリュード第3番とフーガ第6番が大きく修正されている。また1733年にアンナ・マグダレーナが書き始めた写譜がこの段階と一致する。自筆浄書譜の最後に記入された『1732』という年号はこの段階の終わりを意味すると考えられる。第3段階では、フーガ第1番が大幅に改訂された他、フーガ第9番と15番にも小規模の改訂が行われた。この段階は、バッハがドレスデンのザクセン選帝侯の宮廷作曲家の称号をもらった後の1737年頃と推定されている。第4段階では、広い範囲にわたり、大掛かりな改訂が行われた。これは、第2巻が一応の完成をみた1742年頃のこととみられる。大規模な鍵盤楽器用の曲集を次々と作曲し、改訂したこの時期に、全2巻の《平均律》を仕上げてしまおう、というバッハの気迫が背後に感じられる。
概してプレリュードの改訂は、テクスチャーを装飾することにより、その性格を明確にしたり、新しく作曲した部分を挿入する等、構造的な美と安定感を追求している。それに対し、フーガの場合は、第1番のように、主題のリズムの形が変えられていたり、各声部の動きが、教科書的な書法からの脱出を試みたりしている場合もある。これらの場合、主題やフーガという形式の持つ哲学的な思考過程が影響しているのであるが、演奏時により効果的に表現されるよう努めるべきである。
曲集の歴史的位置
バッハの表題に見られる『24全ての調』の説明は不自然でぎこちない。この概念を簡潔かつ正確に表現する語彙をみつけることができなかったのだろうが、似たような実験的な試みは、実は既に20年も前からあったのである。J.P.トライバーが1702年に出版した《一風変わったインヴェンション:全ての音、和音、拍子記号を用いた一つのメロディーによるアリア》と、翌々年に出た《通奏低音に正確なオルガニスト》、また、J.マテゾンが1719年に出版した全ての調を用いた48の範例による《オルガニスト範典》という教本等である。バッハと同い年で直接顔見知りだったと推測されるG.キルヒホフも《ABCムジカル:全ての調によるプレリュードとフーガ集》(現存せず)という作品を書いた。しかし、何といっても、バッハに直接影響を与えたのは、1702年に出版されたJ.C.F.フィッシャーの20のプレリュードとフーガ集《アリアドネ・ムジカ》である。バッハがフィッシャーの作品を研究していたことは、よく知られており、フーガの主題や曲集構築の面からも容易に推測できるように、バッハが《アリアドネ・ムジカ》をモデルとしたことは、ほぼ間違いない。
それでは、バッハの意図する所は、何だったのであろうか。全ての調を使うということの他に重要だったのは、言うまでもなく、完成度の高い芸術性と当時知られていた多種多様の曲のスタイルを集大成することにあった。バッハが卓越した作曲家、演奏家、教育家であった事実をここにしっかりと確認することができる。
曲集の性格
オルガン用に作曲されたプレリュードとフーガと比較してみると、《平均律》のそれは明らかに短く、意識的に控え目な表現手段をとっている。それはクラヴィーア用作品全般に言える事だが、演奏者は少数の親しい間柄の聴衆と崇高な音楽体験の旅を楽しむのだ。
そういった性格を持ち合わせた芸術作品は、作曲や演奏を学ぶ者にとっては、最高のお手本になる。バッハが教育用の作品を手掛けたのは、ヴァイマールでの《オルガン小曲集》に既に見られる傾向だが、《平均律》はバッハ独自のクラヴィーア教育課程に於いて、仕上げの段階に位置づけられていた。H.N.ゲルバーは1724年から二年間、バッハのもとで研鑚を積んでいたが、後に息子に自分の体験を話したようだ。息子が1790年に出版した《歴史的伝記的音楽家事典》に、それが載っている。
「最初のレッスンで、バッハは彼に自作の《インヴェンション》を与えた。彼がこれらの曲を、バッハが満足するまで学び尽くしてしまうと、一連の組曲へ、そして《平均律クラヴィーア曲集》へと続いた。しかもバッハは、この曲集を、その誰にも及ばぬだろう神業でもって、彼のために三回も通して弾いてくれたのである。私の父は、その時のことを自分の最も幸福な一時と思っていたようだが、バッハが今はレッスンをやるムードになれないとかいう口実を作り、彼の素晴らしい楽器の一つに向かい、数時間をほんの数分に縮めてしまったのだった。」
バッハが長年かけて作曲した華美で多種多様な形式とスタイルを含む曲集が、教育用に特に有益である、というバッハの教育哲学がここに再確認される。
曲集の構造、形式とスタイル
当時の教会が左右対称に建てられているように、十字架に象徴されるシンメトリーという概念は、曲集全体の構造に留まらず、一部の曲の構成要素や形式にまでも浸透し、支配している。曲集をまず2分して見てみると、それぞれの終結楽章とも考えられる第12番と24番のフーガに、共通したアイディアが用いられているのが分かる。前者では主題と応答で12の半音を全て網羅し、後者においては、主題のみでそれを達成している。これは、この曲集の意図する『全ての調』という概念の象徴的な表現として解釈できる。それぞれの部を更に3分しているのが、長大な短調のフーガ第4番、8番、20番(16番は、それほど目立たない)である。また各部の構成を見ていくと、それぞれにおいて、古代様式で書かれた5声のフーガが一曲づつ(第4番と22番)、また第1部には3声のフーガが7つ(残り3つが4声と1つが2声)、第2部には4声が7つ(残り4つが3声)という、何やら意味のありげな数字で
構成されている。
曲集を一つのミクロコスモスとして構築したと考えられる跡も、幾つかみられる。例えば、最も簡潔で質素なプレリュードで開始し、最も複雑で長大かつ深遠なフーガで終結するという事実や、ありとあらゆる楽曲形式とスタイルを網羅し、声楽曲を思わせる古代様式のフーガから舞曲、ヴィルトオーゾ風の即興まで幅広いヴァリエーションを提示していることである。
プレリュードに限ってみると、形式の面から以下のように分類できる。ホモフォニックな第1番、2番、5番、6番、10番、15番、21番、ポリフォニックな2声のインヴェンションの第3番、11番、13番、14番、20番、また3声のシンフォニアの第9番、18番、19番、23番、アリオーソの第4番、8番、16番、22番、コンチェルトの第17番、トリオ・ソナタ風の第24番、4声で対位法的に処理された第12番、そしてトッカータ風の導入部と2重フーガの第7番。
フーガは声部や対位法技法の見地から分類するのが相場だが、H.ベッセラーの主張するところの『性格主題』に見られるような主題の持つ旋律の個性や、歴史的見地から観察したスタイルの分類もある程度可能である。
プレリュードとフーガという一対の音楽形式は、この曲集の成立過程をみても分かるように、プレリュードは元来短く、内容的に豊かなフーガの基調を確立するための前奏が目的であったが、この曲集ではエチュード的役割と共に、芸術的な色付けがなされた。この傾向は、20年後に完成した第2巻で更に顕著となる。
演奏の諸問題
この曲集を当時の楽器で演奏するにあたって、我々は歴史的な正確さというものを目標としてバッハの演奏の再現を目指すべきなのか、それとも、現在の我々の持ち合わせている美的感覚に基づいた鑑賞を究極の目標として過去の再現を試みるべきなのか、意見の分かれるところだが、我々の視点が、単なる音の再現から音楽に秘められた表現へと移される時、演奏を決定づける要素、つまり、装飾音の入れ方、リズムの持つ性格やテンポの正しい解釈等が非常に重要な問題となってくる。
当時の作曲家の水準から見ると、バッハはかなり多くの装飾音を記譜していたことで知られている。当時は、旋律の形や和声の動き、それにテクスチャーに応じて、演奏家が曲の表現の一部として装飾を入れていった。つまり、多様なスタイルに関する知識とセンスが、演奏家に要求されていたのである。バッハが弟子とのレッスンの時に挿入したと見られる例は、現存する筆写譜にいくつもみられる。また、装飾音の種類は、楽器の持つ個性と演奏会場の音響にも当然影響される。
バッハのクラヴィーア曲には、あまりテンポ表示が見られない。それは曲集の家庭的、かつ教育的な性格に拠る所が大きい。この曲集を学ぶにあたって、正しい音を弾くというレベルの上に、正しい解釈が必要である事をバッハは当然のことながら要求している。一曲一曲それぞれの個性が楽譜に明白に記譜されているのである。その情報源は多種多様の拍子記号、主なモチーフの動き具合、それに声部間のテクスチャーとリズムにある。そういう趣向で記譜されているため、この曲集に見出されるテンポ表示は、常識では正確な解釈のし難い、例外的な箇所にしか記入されなかった。ここでバッハが用いたテンポ表示は5種類、つまりAdagio,
Largo, Andante, Allegro, Prestoであるが、4つの曲すなわちプレリュード第2番(Presto,
Adagio, Allegro)、10番(Presto)、24番(Andante)とそのフーガ(Largo)にみられるのみである。ここで大切なのは、テンポ表示は、今日の速度変化を目的とする常識とは趣向が異なり、当時はその情緒的性格を指示していた事である。それが間接的に速度の変化を促しているのである。
このように歴史的見地からバッハの演奏を細かく探究していくと、音一つ一つに歴史の香りが深く染込んでいるのに気付く。そこには、過去への道が無限に広がる別次元の世界があるように感じられるのだ。
(c) Yo Tomita,
1996
このエッセイは、キングレコードよりリリースされた鈴木雅明氏のCD(KICC204/5)の楽曲解説として書いたものです
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