1780年代ウィーンと《平均律クラヴィーア曲集》第二巻資料伝承から垣間見る複雑でユニークな受容史富田 庸 1997年2月8日・日本音楽学会関東支部例会発表原稿 |
読者の皆様へ
この論文は、学会当日には時間の関係で、制限時間40分に合わせてあります。また、この論文はただ今英文で出版準備中です。
このファイルは既に40Kバイトを超えているため、文中に譜例(画像)や表を取り込むことは控えました。その代わりに、学会で配布したHandoutの画像版を別のブラウザ・ウインドウでご覧になりながらこれをお読みください。
バッハの《平均律クラヴィーア曲集》は、未出版の作品であったが、ピアニストにとっての『日々の糧(1)』と呼ばれる程までに広く重宝されるに至る背景には、その普遍的価値を信じる息子や弟子達の情熱的なサポートがあった。それはまた、バッハの死後から出版に漕ぎ着けるまでの50年間に作られた筆写譜の数の多さにも強く反映している。(2)
その中にウィーンで書かれた楽譜資料が6つあるのだが、それらは当時のウィーンで《平均律》がどう受け止められていたのかを物語る大変興味深い事実を含んでいる。これら一組の資料は以下の二点に於いて他の大多数の筆写譜群から性格を異にしている:
18世紀後半に書かれた筆写譜の大多数がバッハのオリジナルを忠実に継承する傾向にある中で、このウィーンの資料に見られる軽率で大胆な異端的性格は、古い音楽様式に対する一種の反応である、と捉えることもできる。
これらのウィーンの資料はこれまで特別重要視されてこなかったが、これには理由がある。まず、資料が、時空共に距離があるため、バッハ資料としては価値が低いということである。これは、写譜の誤りや異形、それにバッハ以外の者による改訂が広範囲かつ無数に見られることから、より決定的である。しかし、当時のウィーンの音楽活動を歴史的見地から評価するにあたって、これらの資料の意味するところは少なくない。ましてや、モーツァルトが弦楽四重奏に編曲した《平均律第二巻》からの5つのフーガ(KV四〇五)がこれらの資料に由来しているという証拠も潜んでいることから、モーツァルト研究の立場に於いても、バッハからの影響を可能な限り正確に測ることは大切なことであって、そのためにも、この問題をまず解決しておかなければならない。(4)
この研究発表に於いては、これらのバッハ資料の持つテクストの特徴がどのように発現し、定着し、伝承されていったかを究明していきたい。その過程を、資料批判の見地から議論していくが、各過程に見られる複雑で様々な問題点はその都度考慮していく。
いつ、誰が《平均律》をウィーンへ伝えたかという問題は、確実な文書資料が見つからない限り、解決を見ることはないだろうが、1770年から7年間、オーストリア公使としてベルリンに派遣されていたゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(Baron Gottfried van Swieten, 1734 - 1803)がウィーンへ持ち帰ったという説が現在一番有力である。
まず最近のバッハ研究に知られている資料をここで簡単に紹介する(表1を参照)。(5)
表1: 《平均律第二巻》のウィーンの資料
資料1はスヴィーテン男爵のウィーン帰還の翌年に、ウィーンでは名の知れたオルガニスト、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(Johann Georg Albrechtsberger, 1736 - 1809)によって書かれたものである。この資料は一見して不完全の様を呈しているが、資料自体の構造が後日に変更された形跡は認められないため、初めから計画された通りだと断定できる。よって、ここでの選曲と移調は次ぎのように解釈できる:
曲集はそうして《平均律》風にアレンジし直され、アルブレヒツベルガーはこの巻末に‘Fine’と記した。(6)
資料2、3、4は、《平均律第二巻》の24全てのフーガを擁し、そのオリジナルの順にアレンジされている。(7) これら3つの資料はお互いに極めて近い伝承関係にあり、無数の誤りや異形を共有している。資料5もテクスト面からこのグループに属しているが、ロ長調フーガは資料1と同様にハ長調に移調された。
資料6は、紙質や筆跡の異なる複数の短い手稿譜の寄せ集めが製本された分厚いものだが、その殆どが《平均律第二巻》のもので占められている。(8)
ここまでをまとめてみると、ウィーンのバッハ資料は、アルブレヒツベルガーのユニークなコレクションと、筆写者不詳の「24のフーガ集」という二種類の曲集が意図的に作られたことになる。これらは、曲集の性格が根本的に違う訳であるが、その他の細かい記譜法や異形にもある程度違いが見られる。
資料調査からリストアップした約2000箇所の異形や改訂箇所の分析から、図1に示したような資料間の家系図を作成してみた。ここでは、資料が伝承されていく過程を音楽的見地や記譜法的見地等も考慮しながら検討したが、その段階を‘a’から‘m’で示してある。 (9)
図1: 《平均律クラヴィーア曲集第二巻》:ウィーンの資料伝承の系譜
以下の議論の便宜上、資料1に含まれている16のフーガをグループA、そして、それ以外の8つのフーガをグループBとして扱うことにする。
これら一群の資料の伝承はスヴィーテン男爵がベルリンから持ち帰った、もはや現存しない楽譜資料V’に遡る。究極的には、ロンドン自筆譜(Add. MS 35 021, the British Library, London)に行き着くわけだが、それがまだ一応の完成を見る以前の1740年頃に写譜された資料から派生したと考えられている。(10)この中間資料も現在は失われているが、そのテクストの特徴は現存するベルリンとドレスデンの資料群にもみられる他、(11) 記譜法上の特徴にも親近性がみられる。バッハのオリジナルには見られないものの幾つかを拾ってみれば、例えば、グループAのフーガに限ってみても、譜例1に見られるように、同じ小節内において同音上に繰り返して付加されなければならない臨時記号が無視されており、次世代の記譜法の慣習に従う傾向がみられる。また、一拍ずつに短く厳密にまとめられた連鉤も、ここではよく見られるものである。
譜例1: - Fg.g, b.62
段階‘b’は資料の上では直接確認はできないが、その主な特徴は間接的にある程度掴むことができる。まずスヴィーテン男爵がベルリンから持ち帰った楽譜資料V’の他に、それと現存する資料の中間資料V”が書かれた可能性が高い。この資料上において、記譜法上の改訂や、独特な異形がたくさん形成されるに至ったのである。(12) また、資料1と2の間に異形が共有されているか、いないかという視点から注意深く観察していくと、これらの資料は、V”から独立して派生しており、兄弟関係、またはそれより遠縁の関係にあることがわかる。この分析の基準となったデータ中の誤りと記譜法上の異形は、表2と3にそれぞれまとめてある。
表2: 資料V”、1、2に反映している誤りのパターン
表3: 資料V”、1、2に反映している異形のパターン
ここでリストされた項目の中で、筆写段階における記譜上の方針を強く示すものは、表3の観察点1である。これは、既に譜例1で見たように、記譜上の変更により、譜面を整頓することが目的であるが、これは同時に対位法音楽の記譜上の破壊につながりうる。これは、表2の観察点16であるが、譜例2に示したように、声部が交差している箇所のテクスチャが混乱していたり、観察点14に示したように、二重棒の記譜も不完全になっている。
譜例2: Fg.D, bb.44-45
ここで明らかになった記譜に関する問題は、この資料V”を書いたコピイスト一人に帰することができるであろうか。この問題を資料全体に渡って広く観察していくと、資料1と2や、次世代の資料群にも少なからずこの傾向があるのが分かる。つまり、フーガのような対位法音楽にとっては少々乱暴にみえるこの記譜法は、当時のウィーンでは普通の方法だった、と考えられる。
表2と3に挙げたパターンを細かく観察していくと、これらの記譜上の異形が、資料1か2に帰することができるケースも見つかる。これはV”の段階では、異形は存在しなかったことを意味する。表3に示した通り、資料1が63ケース(段階‘c’)あり、資料2が14ケースのみ (段階‘f’)という事実から、資料1の筆者であるアルブレヒツベルガーは、より自由に書く傾向にあり、資料2のコピイストは、反対に機械的に写譜する傾向にあったといえよう。
V”のテクストの状態は、このように資料1と2間のテクストの違いを研究することによってある程度探り出すことができるが、何よりも啓発的なのは、資料1と2の間に別々の異形が存在する場合である。それは、V”にテクストに自明の誤りが存在し、資料1と2のコピイストが、それぞれ独自に知恵を働かせて修正を試みた結果だと解釈しない限り、理解不可能なものである。これについては、譜例3をご覧頂きたい。
譜例3: Fg.E, b.24
さて、段階‘b’にみられる恣意的な記譜上の変更や偶然の誤りが混入することになった他にも、V”にはテクストの異形が大量に含まれていた。それらは、音楽的質の面からも多様で、資料1と2に明確に反映している。これらの異形は、現存する資料には、その改訂の過程が確認できないため、段階 ‘c’と‘f’以前に大掛かりな改訂がV”上に展開されたと推測される。
音楽的性格が認められる異形は、グループAのフーガからは、110例、グループBからは28例が以下に展開される分析に集まった。(ちなみに、これらは、表2と3にリストしたものには含まれていない)。まず、グループBのものが比較的小数であることに目が引かれるが、それらが音楽的性格の面から見ても、あやふやな物が多いのは特筆すべきことである。これらの異形がなぜ必要と考えられたのかを見極め、これらがいかにして音楽化されていったかを追究していくと、異形の大多数は、それぞれ分類可能な音楽の機能面に意義を持っていることが判明する。つまり、旋律の相似性、和声の順化、リズムの流動化、それにテクスチャーの改造の四点に要約できる。以下その改訂の詳細を見ていくことにする。
初めに旋律の相似性を観察するが、ここに属する改訂の最も重要なタイプは、主題を含めたモチーフの一貫性に関するものである。バッハは、特に晩年の改訂に於いて、音型の抑揚を鋭く引き上げたり原形を変えたりすることによって、音楽的効果を高め、曲に方向性と勢いを持たせるように工夫する傾向があったが、ここのウィーンの資料に見られる異形では、それがいかにもバッハの青年期の異本に見られるように、(13) 音型がその原型の形を留めていたり、譜例4に示したように、そのパッセージの周囲にある音型の形に沿っている。
譜例4: Fg.B♭, b.25 (bb.23-26)
次ぎに重要な旋律改訂のタイプは、バッハの旋律に希に見られる少し不自然な大きな跳躍の部分に、新らしい声部交代を導入するものである。これは、二箇所のみしかみられないが、譜例5に示したものは、音楽的に上出来のものである。
譜例5: Fg.c, bb.7-8
残りのタイプは曲のモチーフには関係がない。それ故に、改訂の基準は別の所へ向けられており、概して、スムーズな音階の形へと変えられている。この部類の改訂は、二種類ある。一つは、譜例6に示したように、バッハの旋律がアルペジォ型になっているもので、もう一つは、譜例7に示したように、反復音を用いた型になっている場合である。
譜例6: Fg.e, b.68
譜例7: Fg.d, bb.26-27
次ぎに和声の順化という見地から異形を見てみる。和声改訂でも音高が変えられる訳であるが、旋律改訂との違いは、美学的見地から、そのパッセージにおける和音の機能への影響力の有無によって区別できる。それらの有効性は多方面から測ることが出来るが、ここではそれらがどう捉えられ、いかに実施されたのか、またそれらを様式の面からも観察する。
和声改訂の中で最もはっきりしているものは、譜例8に示したように、終始に繋がるパッセージにおいて、音符が一つ挿入されるケースである。この際、改訂箇所が、アルペジォ型になるため、旋律の形が美的見地から見て品位を落す形となるが、その代償として、強化された和声機能が得られる仕組みである。
譜例8: Fg.D, b.32
このように和声改訂は、単純明快な和声を目指す傾向があるが、旋律的な性格を併せ持っているタイプもある。和声の構成要素から、これらは7音を除いたもの、9度を除いたもの、小節をまたいだ繋留を除いたものに分類も可能である。また、それらと関連したもので、和音の別の展開形を用いたものもある。これらに共通している点は、バッハが省いた和音の根音を取り入れることである。ここでは譜例9と10にて、その効果を見てみる。
譜例9: Fg.d, b.10
譜例10: Fg.G, bb.32-33
改訂者の意図するところは明白で、首尾一貫しているようであるが、同時にこれらが偶然の出来事であった可能性にも注意を払わなければいけない。というのは、これらの異形の多くは、音高が2度の差であることから、単純な記譜上のミスである可能性があり、また既に表2に示したように、V”には多くの音高の誤りとタイの欠落が見られるからである。
その他にも、和声異形が何種類かあるが、その性格がはっきりせず、改訂の意図する所も正確に読み取れないので、ここでは割愛する。
リズムの流動化をはかった改訂は、一定の脈を維持するために、多少無理に施行された形跡がある。美学的見地から見てみると、旋律や和声改訂のそれらと比較し、リズム面の改訂が音楽上成功しているケースが比較的に少ない。改訂者が目先の目的に囚われていたために、主題の入りが不明瞭になっていたり、バッハ自身の改訂による新奇なリズムの性格が、陳腐なものに置き換えられていたりする例が多く見られる。
しかし、リズム面が、他の音楽の要素と密接に結び付いている場合、改訂は概して成功している。これらの例は、譜例1のソプラノと譜例11 にみられる。
譜例11: Fg.b♭, bb.100-101
このように論証できる例と比べ、実際には不注意な写譜の結果による異形の導入としか考えられないケースの方が比較的数が多い。例えば、符点の記譜を忘れたもの、符点を誤って付けたもの、それに音符と休止符の音価に関する記譜上の誤りが76ケースも存在する。
テクスチャーの改造は大掛かりな仕事で、概して変更箇所は、複数の声部にまたがっている。その中の最も重要なタイプは、対位法のテクスチャーの中で同時に扱われる線の数を減少させることである。譜例12に示したように、ここでは、複雑な四声のテクスチャーが事実上2声の動きに制限されている。
譜例12: Fg.b♭, b.77
次ぎに取り上げるテクスチャー改訂はエレガントではないが、より広範囲に渡ってみられるものである。バッハのオリジナルでは二声間に分配されている一つの旋律が、ここでは1声に集中され、内在する旋律の表面化を測っている。これは、譜例13に示したような記譜上の単純化という面や、譜例14に示したような、より突っ込んだ音楽上の効果をねらったテクスチャーのオーバーホールにもみられる。
譜例13: Fg.e, b.61
譜例14: Fg.f, bb.45-46
これらの一連のテクスチャーの改訂は、各旋律が内包する線としての性格に密着していることから、バッハのフーガが弦楽四重奏のために編曲される過程と関連があるのではないか、と疑ることも可能であろう。
テクスチャー改訂の第三のタイプは、譜例15に示したように、主な終止部に於いて旋律線を3度で補強し、和声とテクスチャーを厚くすることである。この異形は、テクスチャー内の活動の軽減という概念と矛盾しているように見えるが、実際には独立した線として見ると同数であるため、複雑化には繋がっていない。尚、ここで重要なのは、これらの例は全てグループAのフーガに見られることである。
譜例15: Fg.g, bb.72-73
ここまでの観察から、バッハのフーガがV”の中で詳細かつ広範囲に渡って改訂が行われてきたことが明らかになったであろう。様式上これらは古典派の典型的な特徴であることは明白である。しかし、異形の中にその性格をはっきり読み取ることができる物の大多数が、グループAのフーガに集中していることから、資料1の筆者であるアルブレヒツベルガーが改訂に関与した可能性が高いと考えられる。以下に、V”にて展開されたこれらの改訂箇所と資料1に見られるアルブレヒツベルガーの改訂とを比較し、そこに繋がりがあるのか、もしあるとすれば、それはどういう論理的なステップを踏んでいるのか、また、改訂に際して首尾一貫した政策はあったのかを見極め、彼がキーマンであったのかどうかを見ていきたい。故に、まず段階‘c' と‘d’を観察し、段階‘e’が存在したのかどうかを探索し、その後に段階‘f’から先を見ていくことにする。
段階‘c’と‘d’は、アルブレヒツベルガーが資料1上で展開した編集活動の初期の段階である。段階‘c’は筆写時の段階である。ここに属する異形は、筆写中の誤りと既に形成された音楽的に合法的な異形であるが、筆写段階に即席に産み出されたものや、可能性として考えられるV”と資料1の中間資料上で改訂され形成されたものを含む。
これらの内の重要な異形を、既に見てきたタイプに従って分類してみると、まず、テクスチャーが大きく改造されてたパッセージが幾つか見つかるが、この再構築にあたって、ある決まった基準により改訂されている事がわかる。「旋律の相似性」の観点から行われた改訂は、アルペジォ風の角々しい線がスムーズにされた。この改訂は、譜例16と20に示したFg.f#に集中しており、旋律内の大きな跳躍は主題に関連したパッセージにおいても極力避けられている。段階‘b’で見られた異形と比較して特に顕著な点は、ここでの異形の性格は、演奏上難しいパッセージが対象になっている点で、ここでは両手の親指の交差による煩わしさを排除し、弾きやすく改良が加えられている。
譜例16: Fg.f#, bb.35-37
これと似たように、「リズムの流動化」もテクストの再構築として、譜例17に示したFg.e 最終小節と譜例18に示したFg.g 第74小節の終止形に見られる。ここでは、演奏技術とは関係がなく、各声部においてリズム面と精巧な和声の使用の両面から曲の方向性を効果的引出している。しかし、これらの改良箇所は、アルブレヒツベルガーが自分でオルガンを演奏するにあたって思い付いたものと考えるのは早とちりだろうか。
譜例17: Fg.e, b.70-71
譜例18: Fg.g, b.74
この他にも様々な異形が存在するが、比較的目立たないものであるため、詳細な議論はここでは控える。その中でも広く見受けられるタイプは「和声の順化」で、概して終止のパッセージにおいて、自由に動く声部内の音の幾つかが変えられ、その三和音に欠けている構成音(概して根音)を受け持つように改訂されたり、休止符が音符に直されたりしている。
二三の演奏を考慮に入れた大掛かりなテクストの改訂を除くと、段階‘b’から‘c’へと継続した改訂活動が観察できるが、その際に、改訂の対象が限られてきたことは観察上重要なポイントである。
段階‘d’はアルブレヒツベルガーがこの資料上に於いて写譜の過ちを修正したり、音楽的な異形を導入した事実を確認できる段階であり、年代学的かつ文献学的見地から見て、段階‘i’や‘l’から区別される。この段階における修正は、アルブレヒツベルガーがここで4つのフーガ(F#, A♭, b♭それにB)の移調を試みた証拠を数多く含んでいる。この種の味気ないものの他に、バッハのオリジナルから、ウィーンの資料に見られる異形への変遷が改訂という形で記録されている興味深いタイプも見つかる。それらは、資料2では、初めから異形として伝承されているのだが、それらの大部分が、旋律改訂であるのが特徴である。その他にも、資料1に改訂として記録されているものが、譜例1と19に見られるように、その異形の中間の読みを形成しているという特殊なケースもある。
譜例19: Fg.F#, bb.70-72
よって、資料1(段階‘d’)で導入された異形の幾つかはここで生まれ、アルブレヒツベルガーがV”のテクストを直し(段階‘e’) 、資料2がその変更された原本から伝承された、と推測することが可能である。 (14) 当時のウィーンにおいて、バッハのフーガの編集作業がある程度継続して展開された形跡はこの段階‘d’に明白である。その中にあって、アルブレヒツベルガーの手による資料1が示唆する段階‘e’の可能性を認めるためには、その説を立証せねばならない。現在の所、それを示唆するものは、資料1独特の演奏に関連した読みが(アルブレヒツベルガーの自由な意志により)他の資料群へ伝承されずにおり、彼の使用した原本のV”が誤りを含んでいる場合には、彼自身がそれに改訂の手を加えることができたという説によりある程度納得がいくが、これは決めてとなる動かぬ証拠とまではならない。
この他にも、資料1の改訂には、他の伝承経路の異形を取り入れるといったテクストの混交の問題や、他のウィーンの鍵盤楽器用の資料群には見られないユニークなものもある。年代学的には、それらは、段階‘d’と‘l’の間に位置するが、様式的見地のみから年代を細かく推定し分類することは不可能である。現議論には、伝承パターン、様式、それに音楽文法の見地からみた荒い分類で間に合わせる。この部類の異形は、細かい音価の音符の挿入により、完全な三和音を作ろうとするもの、また、リズムに勢いを付けようとするものとに分類できる。それらの中の最も複雑なケースは譜例20に示した。
譜例20: Fg.f#, bb.68-70
段階‘l’に属する残りの改訂は、異形とはいえ、他の伝承経路によくみかけるもので、Hoffmeister版かCzerny版を用いて、読みの違いを拾って改訂されたものである。この推測の基になる最も有力な証拠は、譜例21を参照されたい。(15)
譜例21: Fg.d, bb.13-14
これらの改訂は、段階‘b’にて導入された質的に劣る異形が消滅していくという点で、とても興味深い。以前の段階と比べ、これらの年代的に最も新しい改訂は、その改訂の哲学が消極的でナイーブであり、同じアルブレヒツベルガーが関与したものとは到底思えない。
段階‘f’は資料2を写譜したコピイストの活動で、V”、もしくはそれに由来する現存しない中間資料を原本として、写譜を作成した。段階‘c’との最も大きな違いは、段階‘f’では、24全てのフーガが写譜の対象となったことである。既にこのコピイストの筆写譜製造過程に関するデータを表2と3にて、また、テクストの解釈に関した幾つかの顕著な例を譜例3で見てきたわけだが、段階‘f’の特徴は以下の通りに要約できる。まず、 (1) 写譜が不注意で機械的であったため、音高と音価に無数の過ちが混入し、タイと休止符を記譜し忘れた。それにより、テクストが貧困で信憑性に欠けることになった; そして、(2) コピイストは記譜上の面において、ある限られた範囲内で改良を謀った。それは特に譜頭の位置や臨時記号のタイプにあらわれている。
ユニークな異形に目を向けてみると、ここには、段階‘c’と比べて数にしてこそ少ないけれども、段階‘b’に存在した異形のタイプがここにも存在することが分かる。音階をベースとした音型を採用した異形を導入した際に、旋律と和声の両面で焦点を欠くことになったもの、和声機能を高めるために、音符が二分されたもの、休止符が音符によって擦りかえられたもの、そして声部間で重なった音高の使用を避けるために改訂された音高異形等が挙げられる。資料伝承の見地からみると、これはグループAのフーガのみに集中しているという点が特に意味ありげである。しかし、これらは資料1には見られない異形であるため、これらをアルブレヒツベルガーに帰することは難しい。これが誰であるにせよ、この一連の異形が年代学的には、資料1作成時の後に来ることになる。
グループBフーガへと焦点を移してみると、異形は反復音を除くために改訂された音型や、テクスチャーに旋律的な性格を植え付けるもののような味気のないものに限られているのがわかる。グループAの時と比較して、改訂に成功例は少ないが、その中の失敗例として譜例22にこれに準ずる試みを示した。
譜例22: Fg.d#, b.12
これらの編集作業に確認される質の差はなぜ起こったのだろうか。グループBのフーガはあまり魅力的ではなかったのだろうか。それともアルブレヒツベルガーがこれらの楽章を資料1に写譜しなかったという事実と何か関連があるのだろうか。これらの質問に対する答えは、後に探ることにする。
資料2に見られる改訂は、単純な写譜の誤りの修正から大規模で複雑な改訂まで幅広く無数にあるが、それらの殆どが、資料3から5までに伝承されていることから、これらはかなり短期間に行われたものと考えられる。記譜上の特徴や、改訂方法、それにインクの色合い等からある程度、より細かい分類も可能であるが、その殆どの改訂は、筆写譜が完成後に行われたものである。それらの分類を細かく追求するよりも、改訂者の意図するところを追いかける方が実りが多いと思われるので、そちらをここでは追求する。
段階‘g’は校正段階である。表3に示したように、多くの音高の誤りがここで訂正されている。しかし、タイや休止符の欠如が訂正されていない事実からも明らかなように、体系的で徹底した校正は行われなかった。それどころか、譜例23に示すように、憶測による改訂が行われた証拠も存在する。
譜例23: Fg.c#, bb.66-68
資料2が完成してから、アルブレヒツベルガーが直接手を加えた形跡がFg.E, bb.21-23に認められるが、ここは資料2で欠落していた箇所であった。これが段階‘h’である。年代的にみると、これは、段階‘g’と重なっている可能性があるが、改訂にあたり、その意図と目的の観点から区別をした。この段階の改訂は、修正用原本を使用したもので、憶測によるものではない。また、ここでの修正には、段階‘c’にて生まれた異形がこの伝承経路に伝達されることになった。その中の誤りの修正は、欠落した小節や、音符、それに臨時記号の追加や、声部間のテクスチャーの修正が挙げられる。また、譜例24にも示したようなウィーンの資料にのみに見られる異形もここで導入されたが、それらは音符の追加、音高異形、音型の改訂、休止符を音符に変えることによる実験的性格の和声異形のような重要なものから、警告のための臨時記号の追加や、音符の棒の方向の変換等のマイナーな記譜法上の改変まで幅広い。
譜例24: Fg.f, bb.22-24
つまり、これらの異形は、アルブレヒツベルガーが資料1を筆写中に、改訂されるべきものであることを見抜き、インスタントに改訂を加えたか、少なくともFg.f#に関しては、彼の下の中間資料において改訂を行ったことによるものであり、V”は改訂されなかった。資料2のコピイストは、V”のテクストをかなり忠実に写譜したが、アルブレヒツベルガーは、後に資料2を校正することになった段階で、それらの改訂を追加することによって、二つのウィーンの伝承経路の統合を謀った、と見ることにより、伝承過程が説明できる。(16)
段階‘i’は、改訂のパターンの観点のみにて段階‘h’から区別されている。ここでは、年代的な区別は意図されていないが、改訂者の活動から推測して、論理的な順になっている。理論上、段階‘i’の背景には以下の事が考えられる:
この段階で改訂されることになったものの性格は段階‘h’のものと根本的に同じである。改訂は、誤りの修正か、譜例25に示したような新しい異形の導入である。
譜例25: Fg.E, bb.34-35
ここで、非常に興味深いのは、それらの改訂の殆どが、Fgs.c, D, Eに集中しているという事実であり、それらは全てモーツァルトのKV 405に含まれている楽章であることであり、そこには改訂後のテクストが伝承されている。これは、モーツァルトがこの改訂の背後にいた可能性を示唆している。
これまでの観察から、資料2の改訂の歴史を以下のように再構築してみる。広範囲に渡り改訂されたV”の浄書譜として作成されたのがこの筆写譜であったが、それと同時に、ウィーンでは初めて製本されたバッハのフーガ集として(つまりHandexemplarとして)大切に扱われたと推定される。(17) この資料は、アルブレヒツベルガーのバッハのフーガ集(資料1)とは別の目的で作られた。この筆写譜を作成したコピイストは、経験不足から、オリジナルをある程度忠実に複写する性格をもっていた一方、細かい記譜に関する所は、ある程度自由に解釈しながら書く大胆さを併せ持っていた。その結果、期待されたものとは、かなり違うものが出来てしまった。そこには、多種様々な誤りが混入していたのである。アルブレヒツベルガーは、あたかも、このプロジェクトの監督かでもあったかのように、この資料の校正に携わり、目についた誤りは、修正し、異形の中でも普遍性があると判断したものは記入した。これら現存する資料から垣間見ることができる複雑な改訂の歴史を眺めてみると、当時のウィーンで企画された、この一風変わったバッハ・プロジェクトの熱意が伝わってくる。しかし、この修正に限ってみると、細部にまで徹底して体系的に行われた訳ではなかった。統計上のデータからは、殆どの改訂は、アルブレヒツベルガーによって行われたとみてよいだろう。また、モーツァルトが、幾つかの訂正箇所を彼なりの控え目な方法にて、申し出た可能性もある。
資料3、4、5(Fg.Cのみ)は、改訂後の資料2から派生している。資料2に存在するオリジナルの異形、改訂後の異形、それに記譜上の特徴の殆どが、そのまま伝承されているが、幾つかの改良もその間に僅かながら加えられている。それらは、記譜上の整頓、より一貫性をもった棒の方向性と連鉤の長さなどに集中している。それらの伝承パターンを調査してみると、資料3と4の間に、現在は失われた中間資料が存在していたことが判明する。それをここではV'''と呼ぶ。
一般的な記譜上の改良と並行して、マイナーな誤りの幾つかは、修正された。他方、誤りや異形も小数ながら、ここで新しく導入されるに至るが、それらは、V'''のコピイストによるものであると推測される。その内訳は以下の4つのタイプに分類できる: 音高の誤り、不完全な音型、音符の欠如、そして、リズムの記譜の誤りである。これらは全てが不注意な誤りに属する部類のもの、もしくは資料2中の誤りの修正を不注意に試みたものである。このような写譜活動は、多忙で少々不注意なコピイストを連想させる。 資料3と4のその他の特徴として、個々のコピイストの癖のような、少々異常と思える所もある。資料3のコピイストは、概して、しっかりしており、時折特有の書き方をするが、資料4の彼の方には、注意力の欠如がはっきり読み取れ、数え切れない程の記号が欠落している。仕事に正確さが欠けている上、中には原本中の誤りを自由に解釈し、改良しようという自惚れ風の態度もみられる。
段階‘m’は、資料3に見られるマイナーな修正過程で、基本的に臨時記号、譜頭の改訂に限られているが、対斜を避けるための改訂のような、音楽理論的見地から見たものも存在する。
ウィーンで写譜され、今日まで喪失を免れたこれらのバッハ資料は、複雑な編集過程の歴史を物語ってくれる。ここに見られる異形と改訂には、幾つかのはっきりした層が確認できる一方、明確で一貫性をもった編集政策がその背後に欠けている。この複雑なケースを理解するには、もう一度、その歴史的背景を考慮に入れて見直す必要があろう。
この歴史は、スヴィーテン男爵がウィーンに楽譜を持ち帰った1777年に起源を発する。当時のウィーンの宮廷では、フーガがある種のステータスをもっていたが、バッハのフーガはまだあまり知られていなかった。スヴィーテン男爵は、ベルリンから帰還後間もなく、音楽好きの友人を集め、バッハのフーガの振興活動を始めた。モーツァルトが1782年4月10日に父に書いた手紙から、当時スヴィーテン男爵を中心とした内輪の音楽会が、いかに刺激的な雰囲気であったを知ることができる。(18) しかし、スヴィーテン男爵の奮闘のみが、この一連の資料群にみられるテクストを形成するに至せしめた訳ではない。その他にも、最低3つの要因がここに影響を及ぼした。
まず第一に、彼らの写譜と記譜法自体に問題があった。バッハのフーガの写譜の経験のないものが、写譜とは別に記譜法の変換も行う訳であるから、その過程に於いて誤りを犯しやすかった。残念なことに、その危惧される問題が、ウィーンで作成され、原本となる重要な楽譜に表面化することになったのである。そこでは、対位法の構造が記譜法上破壊され、また数えられないほどの休止符、タイ、臨時記号が省かれることとなったのである。ここから発する、テクストに関する深刻な問題だけでも、体系的にテクストを見直し、改訂していくに十分な原因になり得たはずである。
第二に、当時のウィーンには、段階‘b’で観察したように、バッハのオリジナルの表現形式よりも、古典的な性格のものが好まれていた傾向があった。
そして最後に、スヴィーテン男爵のプロジェクト管理に関する問題がある。彼がベルリンから持ち帰った《平均律第二巻》の楽譜は、バッハの自筆譜の初期の編集段階にその起源を発し、またその中の信憑性に乏しい伝承経路を通した資料から派生しており、彼がその事実をある程度知っていた可能性が考えられる。また、その楽譜は、その時点で明らかに誤りが認められるものだったのかもしれない。いづれにせよ、信憑性の高い別の筆写譜を取り寄せるということをせず、コピイスト各自が自由意志に基づいて編集作業を施すという策をとったのである。それ故に、全ての編集過程は、信頼できないテクストを下に行う、ということになってしまい、それは、究極的には、バッハのオリジナルを、時代遅れの古臭い表現様式や、コピイストの犯した誤りから区別ができなくなる結果となってしまった。
また、別の観点から見ると、ある楽章が幾重にも改訂が加えられたということは、計画通りに進められた結果ではなく、優れた音楽家と時間を共にできた機会が少なかったであろうことを示唆する。アルブレヒツベルガーが、「最新の表現様式で編集されたバッハの24のフーガ集」の編集責任者であった可能性が高いし、段階 'i' におけるモーツァルトの貢献も可能性として、辻褄が合う。
これらの鍵盤楽器用の資料から発展して、KV 404aや405のような弦楽三重奏や四重奏へ編曲された資料へも研究の手を伸ばすと、それらは、それぞれ資料1と2に代表される二つの伝承のルートに起源を発することがわかる。
このウィーン独特の《平均律第二巻》の受容史がいつまで続いたのかを突き止めることは、これからの研究課題である。ただ、現在の段階で確実なのは、1801年から出版されはじめた印刷譜の普及が大きな転換期を齎したことである。資料2の伝承経路は、影響を受けなかったものの、資料1と6に於いては、比較、改訂されたことで、混交されることになってしまった。つまり、1780年頃の音楽の都、ウィーンにおいて興り、今日までに知られることのなかった、《平均律第二巻》の一連のユニークな受容史は、こうしていつのまにか幕を閉じていたのであった。
(1) 「すぐれた大家、とりわけヨーハン・セバスティアン・バッハのフーガを熱心に弾くこと。『平均律クラヴィーア曲集』を日々の糧としてほしい。そうすればきっと有為の音楽家になれる(角倉一朗訳)」。この有名なシューマンの助言はHaus- und Lebensregeln (1850). 邦訳はバッハ頌(白水社)より。
(2) 出版の歴史に関した詳しい情報はMagali PhilippsbornのDie Fruedrucke der Werke Johann Sebastian Bachs in der ersten Haelfte des 19.Jahrhunderts. Eine kritisch vergleichende Untersuchung anhand des Wohltemperierten Klaviers I, (博士論文、Johann Wolfgang Goethe Universitaet zu Frankfurt am Main, 1975), 19-36; Sieghard Brandenburgの論文‘Die Gruendungsjahre des Verlags N. Simrock in Bonn' In: Studien zur Bonner Musikgeschichte des 18. und 19. Jahrhunderts. Beitraege zur Rheinischen Musikgeschichte Heft 116. (Koeln: Arno Vork-Verlag, 1978); Alfred DuerrのNeue Bach Ausgabe, V/6.1のKritischer Bericht (Kassel, et.al: Baerenreiter, 1989), 181-186; Matthew Dirstの Bach's Well-Tempered Clavier in Musical Thought and Practice, 1750-1850, (博士論文、Stanford University, 1996) 6-12.
(3) これらの他にも《平均律クラヴィーア曲集》第二巻から抜粋されたフーガのみを集めた資料も存在する(例:ロンドン・Royal College of Music所蔵のRCM26、ケンブリッジ・ Fitzwilliam Museum所蔵のMU MS 161等)。しかし、これらはここで論じられているウイーンの資料とは近い関係にない。
(4) In a paper read at the British Musicology Conference 1996 18-21 April 1996 held at the King's College, London, I refined the previous research by Warren Kirkendale (‘More Slow Introductions by Mozart to Fugues of J. S. Bach?' Journal of the American Musicological Society, 17/1, 1964, pp. 43-65) by demonstrating that Mozart's editorial activities were fundamentally different from those attested in the Viennese sources, in that he merely acted as a respectful editor of the string arrangements by not modifying the text unnecessarily unless the text in his exemplar was obviously corrupt or the pitch went outside the instruments' normal range. This paper‘A new light shed on the origin of Mozart's KV 404a and 405 through the recent source study of J. S. Bach's Well-Tempered Clavier II' is under preparation for publication.
(5) More detailed physical and philological information about these sources is covered in Alfred Duerr's Kritischer Bericht to the Neue Bach Ausgabe, V/6.2 (Kassel, et.al.: Baerenreiter, 1996), pp.74-75, 118-119. The information about the text from text-critical viewpoint is covered fully in Yo Tomita, Critical Commentary 2. I am most grateful to Dr Duerr for his information on sources 1, 2, 4 and 5 in our private communication in July 1991. Source 6 is discovered by myself in July 1995. I am grateful to Mr Robert Holmin of Stiftelsen Musikkulturens fraemjande, Stockholm and Dr Elinore Barber of Riemenschneider Bach Institute, Baldwin-Wallace College, Berea, Ohio for their kind information regarding the sources in their possession.
(6) It is worth noting that Albrechtsberger's manuscript containing the first 14 fugues plus one prelude from WTC I also survives. This MS, s.m. 14 602 of Oesterreichische Nationalbibliothek, Vienna, is described in Kritischer Bericht to the Neue Bach Ausgabe V/6.1 by Alfred Duerr, p.102.
(7) Source 3 is available in facsimile edition by Riemenschneider Bach Institute, Baldwin-Wallace College as Book III and IV of‘Riemenschneider Bach Facsimiles' series (1985). Gerhard Herz also describes the manuscript in greater detail in Bach Sources in America (Kassel, et.al: Baerenreiter, 1984), pp. 250-254.
(8) At the end of each piece that is edited, the reviser wrote an inscription with a date, e.g.,‘Coll. C. Fueg. 18 24/8 43.' (collationiert C. Fuegerl [?], 24 August 1843 -information kindly provided by Dr Alfred Duerr in our private communication). Extensive correspondence between S.M.210 post correcturam reading and the Czerny edition which first appeared in 1837 (including the unique variants found in Czerny's edition such as Fg.d#, bb.21 and 29) confirms that the former was revised in 1840s referring to the latter. See Yo Tomita, Critical Commentary 2, pp. 308, 413-315.
(9) All the variants discussed here are a part of information given in Yo Tomita, Critical Commentary 2, but the present study attempts to refine my earlier work summarised in pp. x-xi.
(10) My chronology recognises that the sources stemming from this period inherited a large number of readings ante correcturam of L. The fact that this group of sources contains later (post-autograph) versions of the fugues in C and A flat major can be explained in this way: then missing movements, namely the prelude-fugue pairs in C major and A flat major, were added to the collection of this branch in Berlin from a source stemming from the different autograph set. The same process is witnessed in M B/1974 of Staats- und Universitaetsbibliothek, Hamburg (Source H1). See Yo Tomita, Critical Commentary 2, pp. ix-xi.
(11) The Berlin sources refer to Mus ms Bach P 209 of Staatsbibliothek zu Berlin Preussischer Kulturbesitz and 6 138 19 of Hochschule der Kuenste, Berlin, and the Dresden source refers to Mus 2405-T-7 of Saechsische Landesbibliothek. They belong to a source group H2. It is quite possible to think that their common Vorlage was also used for making van Swieten's copy.
(12) The other theory, namely that all the subsequent revisions were carried out in the manuscript van Swieten had brought back from Berlin, is less likely, although this should remain as a possibility.
(13) The origin of variant reading in Fg.B, b.42 is, in fact, controversial. It can be demonstrated that Bach revised the text in L in the opposite direction from the proposed process we have discussed above. See Tomita (1993), p. 137. We do not have sufficient evidence to prove the present case in either way whether this Viennese variant originated in the reading ante correcturam of L, or whether it was merely a coincidence that the revised reading in V”happened to be the same as the reading ante correcturam of L.
(14) The other theory, namely that the variants, worked out on either Source 2 orV”by someone other than Albrechtsberger, were transferred to Source 1 on a separate, later occasion, is less likely.
(15) This particular state of reading is not transmitted to the other early editions such as Naegeli or Simrock. The other revision belonging to this category is Fg.B, b.58, T,1/1 (f#' was revised to d#').
(16) The other theory, namely that Albrechtsberger copied Source 1 from the corrected stage of Source 2, is extremely unlikely on the evidence presented thus far.
(17) Due to the stiff spine of the manuscript, it was not possible to examine the fascicle structure of this source.
(18) The Letters of Mozart and His Family. Chronologically arranged, translated and edited with an Introduction, Notes and Indexes by Emily Anderson (3rd revised, London: Macmillan, 1985) p.800.
1997年3月15日にMicrosoft Word 6.0文書からHTML形式へコンバートしました。