バッハがカノン技法の可能性に挑戦することとなった直接のきっかけは、1741年秋に出版となった《ゴルトベルク変奏曲》である。ここでは、3曲目ごとの変奏にカノンが配置されており、曲集の構造を支える役割を担っている。同度から9度へと順に音程が広がるように配列されている全9曲の<音程カノン>は、少し前から親交をもっていたゼレンカから得たアイディアである可能性が高く、そういう意味では、選帝侯都ドレスデンで活躍していた音楽家からの情報収集や、その当時「古様式」の伝統を汲む過去の名作の写譜などを通して幅広い作曲技法や様式を積極的に吸収していたバッハの努力の賜という見方もできよう。それに加えて忘れてならないのは、1736年秋にドレスデン宮廷作曲家の称号を得た矢先の翌年から数回に渡り、かつての教え子のJ.A.シャイベに「技法の過剰により美しさの本質が失われている」とか「(バッハは)教養ある作曲家に当然求められてしかるべき学問に精通していない」など、痛烈な批判を受けたことである。バロック後期に台頭してきた新しい美的理想を主張する、いわば当時のアバンギャルドの視点から見ると、バッハの音楽趣向は時代遅れと映ったことは確かなところであろう。両親を幼くして亡くし、大学教育を受けられなかったバッハであったが、それでも彼の作曲家としての豊かな知識は周知のところであり、彼自身もシャイベの批判を跳ね返すだけの気概と自信は十分持ち合わせていたようだ。陰ながらもバッハの援護に回ったL.C.ミッツラーの役割も見逃せない。彼が1738年に創設した「音楽学術交流協会」は、音楽を理論的・学問的にアプローチすることを促進しており、当時のライプツィヒにカノンを見直す土壌ができつつあったのである。
ここで特筆すべきは、カノンがある体系に沿って並べられているというだけでなく、実際に演奏を通して鑑賞するに耐えうる音の芸術へと高められていることである。つまりバッハがシャイベの批判を実践で反駁していると見ることも当然可能になってくる。実際に音楽愛好家を念頭において創作したこの曲集に変奏曲という形式を採用したのにもそれなりの理由がある。基本になる和声とフレーズの構造が同じであるため、親しみやすさが必然的に前面に出される一方、変奏を通して種々様々な技法や様式を自由に追求できるという面を兼ね備えているからである。しかし、これらのカノンは技法的にシンプルな<平行カノン>と<反行カノン>に限られており、それが後の《14のカノン》の作曲(1742~1746年)へと繋がる直接の引き金となっているのである。
曲の始めの3つの変奏に《14のカノン》との作曲概念の継続性がみられるため、1746年には既に作曲が相当進んでいたと見られるが、1745年のクリスマスに調停されたドレスデン条約(第2次シレジア戦争)の講和記念礼拝(ライプツィヒ・ニコライ教会)を念頭において作曲したという説もある。この曲には印刷譜と自筆譜の2つの稿が現存するが、曲順や細部に渡る違いからは、バッハの仕事の進め方がいかに複雑であったかが読み取れるため、どちらが最終稿かという明白な結論は出せない。
しかし、大王がこの献呈を喜んだという記述や、ましてや演奏したという記録は皆無である。大王が好んだギャラントな趣向は、バッハの複雑極まる対位法音楽とは対極にあったばかりか、トリオ・ソナタのフルート・パートの技巧な難しさは、アマチュア演奏家の大王を途方に暮れさせてしまったであろう。最近のマリッセンの神学的方面からの研究も、バッハの献辞文や各楽章中の副題に含まれる言葉や言い回しから宗教的な匂いを嗅ぎ取った大王はこの献呈を喜ばなかった、という結論をだしている。
このエッセイは、BCJの彩の国さいたま芸術劇場、大バッハ・シリーズ『バッハ「音楽の捧げもの」公演』(2001年1月7日)のプログラム用に作成したものです。
出演:前田リリ子(トラヴェルソ)プログラム
若松夏美、高田あずみ(ヴァイオリン)
鈴木秀美(チェロ)
鈴木雅明・広沢麻美(チェンバロ)14のカノン(2台のチェンバロ)
カノン変奏曲《Vom Himmel hoch》のアンサンブル編曲版(鈴木雅明編曲)
音楽の捧げもの